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氏名:綴木 馴 (つづるぎ じゅん)

(2006年2月7日を以て戸籍上,綴木 潤から綴木 馴に改名しました)





●綴木家発祥の地と由来(新説版)●

綴木家の由来を辿っていくと,武蔵七党(むさししちとう)と呼ばれる,平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて,武蔵国を中心として下野,上野,相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団まで遡る.

武蔵七党には,横山党,猪俣党,西党(西野党),児玉党,丹党(丹治党),綴党(つづきとう),私市党がある.

その七党の内の一つである綴党は豪族の結束集団であった.この綴党の中に,江田(荏田)源三(えだのげんぞう)という武将がいて,源義経に仕えて活躍した.江田源三は平家物語にも登場しており,義経の家臣である.このことから,綴党は義経に仕え,壇ノ浦の合戦まで源氏側として従軍したと言える.壇ノ浦の合戦勝利の功績により,綴党は北九州市門司区の長谷を与えられた.綴党の一部は綴木と名乗り,この地を拠点として地侍となり,小倉の領主が代わってもその地を護り続けた.

旧綴木公園(現:伯翠庵)は,綴木家の邸宅跡であり,長く細い小道の奥に広がる広場は,まさに要塞跡である.

ただし,江田源三は門司に留まらず義経に仕え続けた.1185年屋島の戦いの話の中で弁慶らとともに強者として紹介されている.義経が兄・頼朝との対立を激化させた1185年,頼朝は土佐坊昌俊を差し向け堀川夜討が行われた.義経たちとそれに味方する源行家の活躍により敗走させ、土佐坊昌俊を捕えることができたが,江田源三はこの乱戦の中で討死したとされている.綴党を英雄的豪族として見ることが出来るのは,まさに江田源三のお陰である.

●綴木家の由来2説が発生した根拠●
綴木家の本家である我が家には先祖からの古い言い伝えがあった.その言い伝えとは「綴木家は平家の落人だ.」と言うことである.壇ノ浦の合戦で敗れた平家一門の綴木家が壇ノ浦のすぐ側の門司に広大な土地を持っていたのは何とも理解しがたい言い伝えである.要は「寝返った」と言う逆賊であった事実を恥じて作られた寓話である.実際に「つづき」と言う音を持つ姓は天皇家に続くと言う意味で,天皇家の護衛集団として天皇から与えられた姓であるのも事実である.江田源三が史実として実在していたことで,新説の方が有力視出来るが,綴党と綴喜家が別の豪族であることも否定できない.何分資料が少ないので,本当の所は「誰にも分からない」というのが実情である.

●横浜市都築区の由来●
都築区は都築群の名を留めるに於いて付けた名である.横浜市は「都を築く」という意味で名付けたと言うが,嘘である.古くから当地域は「つづき」と呼ばれており,その読みに字を当てた「都筑」が 8世紀頃に郡名として定着したと考えられている.

元々は,豪族の「綴党(つづきとう)」の根拠地だった.この「綴(つづき)」という名前の当て字として「都築」を用いた.

この綴党の中に,江田(荏田)源三(えだのげんぞう)という武将がいた.源義経に仕えて大活躍したのは上記の通り.源三は,江田(荏田)城を築城している.源三は義経に仕え続け討ち死にするが,源頼朝が1190年に上京したときに従った家人の中に,江田小次郎(えだのこじろう)がいた.

●地名には「荏田(えだ)」,新しい施設や建物には「江田」の文字が使われることが多い●
◆荏田城
後北条時代に小机城(南武蔵支配の拠点)の支城として,鶴見川沿いに荏田城,茅ヶ崎城,池辺城,川和城,佐江戸城,山田城,大曽根城,大豆戸城,篠原城などを配した.

◆江田駅
現在この付近の地名は『荏田』と書かれているが,建久年間にこの土地に江田小次郎という豪族がいたことから『江田』と呼ばれるようになった.そして江戸時代には徳川幕府の化粧地で,江田城もあったといわれる.『江田』が『荏田』に変わった時点は記録になく不明である.『荏』は当用漢字にないので,昔使用されていた『江田』を駅名とした」(東急広報課『駅名はこうしてつける』)

●綴木家の由来2●

綴木という姓に対して,複数の読み方があるが,正しくは「つづるぎ」である.綴木家は元々「綴喜(つづき)」と名乗り,天皇家直属の武士集団であった.天皇家から現在の京都府綴喜郡の一部を領地として賜り,天皇家を護衛する武家として,綴喜の姓を受ける.「つづき」の「つづ」とは天皇家に「つづく」と言う意味として与えられた姓である.

源平合戦の折,平家により都からさらわれた安徳天皇を護衛する為,綴喜軍は平家軍に加わるが,壇ノ浦の合戦で,平家軍が劣勢となる中,安徳天皇は関門海峡に身を投げてしまう.主君である安徳天皇を失った綴喜軍は平家軍に弓を引き,結果として源氏に寝返る形となった.その恩賞として,源氏から平家の領土であった現在の北九州市門司港付近を新たな領地として拝領し,綴木「つづるぎ」と改姓.

明治維新後は,広大な綴木家邸宅を綴木公園(現在の料亭:伯翠庵はその一部)として築き,門司市民に桜の名所として開放するほどの栄華を誇ったが,今は,綴木公園の存在すら知られておらず,武家の名門であった綴木家も栄光の影を失いつつある.現在は数人の綴木姓を名乗る一族が門司港付近に住んでいる.