綴木家の武家由来を支える史料的根拠

京都南部の古代地名・武士の名称・佐竹家系図と門司綴木家の家歴

綴木 馴 | 第16稿・継体天皇の筒城宮加筆版 2026年9月25日

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要旨

本稿は,門司綴木家の武家由来を検討する根拠として,古代京都南部のツツキ系地名,前近代の「綴木」表記,武士・武家における名称使用,及び門司の家伝・家族記録を体系的に示す.古代の山代・山背国南部にはツツキの地域呼称が実在し,継体天皇の筒城宮は,この地域を6世紀初頭の王宮の歴史に具体的に結び付ける重要な記録である.『日本書紀』の継体5年(511)10月の遷都記事と,同12年(518)3月の弟国への遷都記事により,筒城宮の時期を示せる.さらに,1234年付寄進状と1706年付口上書の刊行翻刻には,その地域の郡名として「綴木郡」が記される.中世史料には「つつきの平太経家」「綴喜平太經家」「都筑平太」及び「綴喜黨」「綴黨」が現れ,ツツキ系名称が武士・武士集団の名称に用いられていたことが分かる.さらに,『新編佐竹七家系図』の「千三郎 綴木氏を称」は,「綴木」という同一表記の氏称を武家の系図が記録する重要な事実である.丹羽基二の辞典も,綴木を綴喜の「おもな関連姓氏」に挙げる.門司では,大庄屋・庄屋の家伝,明和・安永・文政元年の銘を含む墓碑群の写真記録,天保2年生まれの熊蔵と父興七を記す除籍謄本,近代の家主・会社役員・市会議員等の記録が,地域に根付いた家の歴史を具体化する.除籍に記された熊蔵の父「綴木 興七」と墓碑銘の同氏名との一致は,門司綴木家が江戸期から綴木姓を用いていたと考える具体的な史料的根拠となる.地名辞典が記す庄司町の庄屋由来は家伝と地域的に符合し,1917年の私設綴木公園開設と桜1,500本・仲見世の整備は,綴木の名を冠した地域施設の歴史を示す.以上により,綴木家の武家由来を考える根拠は,名称の印象にとどまらず,地名史・武士名・武家氏称の記録に求められることを示す.各地の人物と門司の家を結ぶ個別の世代関係は,これらの確認事項と区別して扱う.

キーワード 綴木,武家由来,綴喜郡,ツツキ系名称,佐竹家,門司,家系史

1 はじめに

1.1 研究の目的

本稿の目的は,綴木家の武家由来を支える史料上の事実を,古代地名から武士の名称使用,近代の家族・地域記録まで一貫して提示することにある.綴木という名称は,門司の家だけを見て説明するよりも,京都南部のツツキ地域,綴喜・都筑等の表記,武家系図に記された綴木氏と併せて考察することで,その歴史的位置が明瞭になる.

とりわけ重要なのは,地名としての「綴木郡」と,武家の系図における「綴木氏」が,具体的な資料に記されている点である.中世のツツキ系武士名も,この名称を武家史の中に位置付ける史実である.本稿はそれぞれの記事を原文と出典に即して取り上げ,その積極的な内容を家の由来研究に生かす.

1.2 本稿の主張

綴木姓の武家との関係には,文献上の根拠がある.第一に,綴木と関連付けられるツツキ系地名は古代京都南部に遡る.第二に,その名称群は中世武士と武士集団の記録に現れる.第三に,佐竹家関係系図には綴木氏称そのものが記される.この三点を,門司綴木家の家伝・墓碑・除籍・地域活動の記録と併せて検討することが,本稿の論旨である.

ここで,古代の地域呼称,史料に記された文字表記,武家での使用,門司の特定人物の家歴は,それぞれの資料が直接に示す内容として記述する.本稿が主張する武家由来の歴史的根拠と,特定の中世武士を門司家の祖先として確定する個別系譜とは,論証の段階を分ける.この区別によって,史料の積極的な価値を保ちながら,人物関係を推測で補うことを避ける.

1.3 構成

第2章で史料の扱いを説明し,第3・4章で古代地名と「綴木」表記を検討する.第5章では中世武士・武士集団と佐竹家系図を中心に,武家での名称使用を論じる.第6・7章は徳島の家伝,門司の家族記録と近代の地域活動を扱う.第8・9章でこれらの根拠を総合し,第10章で結論を示す.白味噌雑煮と家紋,及び横浜市都筑区の旧地名継承は補論に,資料別の確認内容は付表にまとめる.

2 史料と方法

2.1 資料の内容を生かす読み方

使用資料は,記紀・行政地名資料,中世の説話・編年史・軍記,前近代文書の刊行翻刻,近現代の辞典・研究書,佐竹家関係系図,『相生町誌』,門司綴木家の除籍謄本,墓碑という現物資料とその写真記録,著者の現地観察及び補修履歴の説明,及び近代の会社録・人名録・市史・地図である.刊行翻刻,系図,地域史,辞典,家伝にも,それぞれ固有の資料価値がある.原文書の所在や画像を今回確認できない場合も,既存の刊行資料や過去の照合で得られた知見は,確認媒体を明示して採用する.

翻刻に記された文字は翻刻の記録として,刊行系図の氏称は系図の記載として,家伝は家に伝えられた由来として取り扱う.資料の種類を明記することが,その内容を正確に評価する基礎になる.過去の原稿で照合済みと記録された事項と,本版に内包される画像から読める事項は,付表及び参考文献で識別する.

2.2 年代・表記・人物の対応

史料が語る出来事の年代,作品・文書の成立年代,利用する写本・刊本の年代を区別する.例えば,天福2年付寄進状の学術翻刻は,1234年付文書の内容を読むための資料であり,翻刻の刊年と文書の年紀は別である.『古今著聞集』の写本にある仮名「つつき」と,近代校訂本の「綴喜」も,利用した伝本に即して引用する.

また,地名,人物の冠称・氏称,党名,家の姓を読み分ける.武家で「綴木」が用いられた記録と,門司の綴木家の家族関係は,それぞれ独自の成果である.同姓人物の活動は,記された氏名・住所・年代・職業とともに示す.親族関係が明記される場合は,その続柄を原文に即して採用する.

2.3 家伝と史料の総合

家伝・墓碑・文献・戸籍は,異なる側面から家の来歴を伝える.本稿では,資料に記された肯定的内容を先に示し,評価の範囲は必要な箇所で簡潔に添える.一次資料の未発見だけを理由に,家伝や刊行史料の内容を誤りと判定しない.一方,伝承上の由来と公的身分記録,武家における名称使用と特定家への継承は区別する.

引用と書誌情報は原稿に蓄積された照合結果を継承し,掲載された図1―35を用いる.台形補正画像は,対応する原写真と併載し,銘文を読むための補助資料として用いる.原文のない移住経路,改姓の動機,新たな親子関係は叙述に加えない.本稿の中心は,既に史料から読み取れる地名・武士名・氏称・家族史の内容にある.

3 古代京都南部に実在したツツキ地域

現在の京都府南部には,古代からツツキと呼ばれる地域が存在し,宮の所在地及び行政地名として記録されている.『古事記』の「都都紀」「筒木」,『日本書紀』の「筒城」,『続日本紀』以後の「綴喜」は,この地域の歴史をたどる具体的な手掛かりである.次章で扱う「綴木郡」は,この古い地域名に対応する中世・近世文書の表記であり,綴木という名称を考える地理的な基盤となる.

3.1 山代・山背・山城と京都南部のツツキ

「山代」「山背」「山城」は,現在の京都府南部に相当する国域に関わる表記である.『古事記』は「山代」と歌謡の「夜麻志呂」を用い,『日本書紀』の筒城関係記事には「山背」が現れる.延暦13年(794)11月8日には,山背国を山城国へ改めたことが京都市の公式歴史年表に整理されている[57].これらの国名表記を踏まえることで,「山代綴木」「山城國綴木郡」を京都南部の地理的文脈に位置付けられる.

記紀の宮号・地名と,『続日本紀』『倭名類聚鈔』『延喜式』の綴喜郡記事は,古代のツツキ地域と後の山城国綴喜郡域との対応を示す.旧綴喜郡域には現在の京田辺市域も含まれる[58].國學院大學の宮都データベースも「夜麻志呂能都々紀能美夜」を取り上げ,京田辺市多々羅都谷の比定地を紹介する[59].本稿が論じるのは,この地域名の存在と継続である.

3.2 『古事記』の都都紀・筒木

712年成立の『古事記』について,経済雑誌社編『国史大系 第7巻』(1898年)の利用本文を読むと,仁徳天皇段には「筒木韓人」と,歌中の「夜麻志呂能 都都紀能美夜邇」がある[1].地名としての筒木と,宮を詠む音仮名の都都紀が同じ段に伝えられている.

如此歌而還,暫入坐筒木韓人,名奴理能美之家也……夜麻志呂能 都都紀能美夜邇…… (『古事記』仁徳天皇段,刊本130―131頁/国立国会図書館デジタルコレクション79コマ)

開化天皇段には「大筒木垂根王」「山代之荏名津比賣」「山代之大筒木眞若王」という人物名・所在地表現もある.ツツキ系の語形が宮・地域だけでなく,古代人物を記す名称の一部にも用いられていたことが分かる.

其兄比古由牟須美王之子,大筒木垂根王,次讃岐垂根王……日子坐王,娶山代之荏名津比賣,亦名苅幡戸辨…… (刊本78―79頁/53コマ)

又娶其母弟袁祁都比賣命,生子山代之大筒木眞若王…… (刊本79頁末―80頁/53―54コマ)

これらはそれぞれの人物名・表現として引用する.菊池山哉による「山代綴木の荏名ツ姫」という記述は,こうした古代の記載と地理を踏まえた後世の研究上の表現として,第4章で検討する.

3.3 『日本書紀』の筒城と継体天皇の筒城宮

720年成立の『日本書紀』では,仁徳紀に「筒城岡南」「筒城宮」,継体紀に「山背筒城」が現れる.利用版は黒板勝美校訂『国史大系 第1巻 日本書紀』(1897年)である.宮の造営・居住・遷都に関わるこれらの記事を,古代京都南部のツツキ地域の歴史を具体化する史料として取り上げる.[2]

3.3.1 磐之媛の筒城宮を伝える記事

仁徳紀は,皇后磐之媛が山背に戻り,筒城岡の南に宮室を営んだこと,及び筒城宮で没したことを伝える.第3.2節の『古事記』に見える「筒木」「都都紀」と併せ,ツツキという地域名が宮の所在地として語られる早い段階の記録である.[1][2]

更還山背,興宮室於筒城岡南而居之 (仁徳紀,刊本201頁/108コマ)

爰口持臣至筒城宮……三十五年夏六月,皇后磐之媛命薨於筒城宮 (仁徳紀,刊本202頁/109コマ)

3.3.2 継体天皇の筒城宮(511―518年)

継体天皇の筒城宮は,古代のツツキ地域を6世紀初頭の王宮の歴史に具体的に結び付ける,名称史上の重要な記録である.『日本書紀』継体5年冬10月条には,山背の筒城への遷都が次のように明記される.[2]

五年冬十月,遷都山背筒城 (継体紀,刊本288頁/152コマ)

『日本書紀』の紀年を西暦に対応させると,継体5年は511年に当たる.継体天皇は樟葉宮から筒城へ移り,同12年(518)春3月に弟国へ遷ったと記される.『福井県史』も両記事を取り上げ,樟葉―筒城―弟国という宮の移動を論じている.京田辺市の『第3次京田辺市総合計画』は,筒城に都が置かれた時期を511年から518年までの7年間と説明する.本稿ではこの紀年に従い,筒城宮を511―518年の王宮として位置付ける.[89][90]

筒城の宮に関する記事と年代の対応
記事・年代記録内容名称史上の位置付け
仁徳紀の磐之媛の記事筒城岡南での宮室の造営,筒城宮での居住・死去.『日本書紀』の叙述では継体紀に先行する,筒城の宮の記録.[2]
継体5年(511)冬10月「遷都山背筒城」.樟葉宮から筒城へ移る.山背国の筒城を,具体的な紀年を伴う遷都の記録に結び付ける.[2][89]
継体12年(518)春3月弟国への遷都.筒城に宮を置いた時期の終点を示す.[89][90]

ここでは,記事が伝える6世紀初頭の出来事と,『日本書紀』が成立した720年を区別する.また,記紀には継体紀に先行する磐之媛の宮の記録があるため,継体天皇の宮を「筒城」という地名の発生そのものとはせず,古代ツツキ地域の歴史を具体的な遷都年代に結び付ける中核的な事例として重視する.

3.3.3 京田辺の伝承地と名称史における意義

『福井県史』は筒城宮の所在地を,旧京都府綴喜郡田辺町多々羅の普賢寺谷付近に推定する.現在の京田辺市域に当たるこの地域は,山背の筒城と後の山城国綴喜郡との地理的な対応を考える具体的な手掛かりとなる.[89]

現在,同志社大学京田辺キャンパス内には「筒城宮址」の碑がある.大学の公式案内は,正門を入って右手の小高い丘に碑が保存されていること,地名や江戸時代の文書に基づいて普賢寺川流域への比定が行われたことを説明する.碑の所在は,古代の宮の記憶を伝える伝承地として示し,宮殿の正確な位置は今後の調査によって具体化する事項として扱う.[91]

國學院大學の宮都データベースも,仁徳天皇の后石之日売命(磐之媛)の「夜麻志呂能都々紀能美夜」と,継体紀の筒城への遷都記事及びキャンパス内の顕彰碑を併せて紹介する.同データベースは両宮が同じ場所であったかについて区別を保っている.本稿も,両者を古代ツツキ地域の宮都史を構成する記録として読む.[59]

綴木の由来を論じるうえで,筒城宮は,ツツキという名称の古さに加え,その地域が古代王権の宮に関わる歴史を持つことを具体化する.記紀の都都紀・筒木・筒城,後の行政地名である綴喜郡,及び第4章の中世・近世文書に現れる「綴木郡」を,それぞれの史料と時代に即して対応させることにより,綴木という名称の地理的・歴史的背景をさらに明瞭に示せる.

3.4 行政地名として記録された綴喜郡

『続日本紀』天平神護元年(765)8月条には「綴喜郡松井村」が現れる.宮に関する伝承に加え,郡・村という行政地名の具体的な記載が得られる[36].

到于山背國相樂郡,絞之埋于狛野。又絞益女於綴喜郡松井村。 (『続日本紀』巻26,刊本448頁/PID 991092,230コマ)

源順『倭名類聚鈔』の利用版(宝文堂,1869年)では,山城国条の「綴喜郡」の直下に訓「豆々木」が付され,郷名としても「綴喜」が挙げられる[3].この郡名と訓の組合せは,綴喜の名称とツツキという称呼を結ぶ明確な記載である.

綴喜郡〈豆々木〉 山本 多河 大住 有智 田原 中村 志磨 綴喜 甲作 餘戸 (『倭名類聚鈔』巻6,山城国条,PID 863683,17コマ)

『延喜式』巻9神名式上にも「綴喜郡十四座」とあり,郡内の神社を整理する行政上の単位として綴喜郡が用いられている[4].

綴喜郡十四座 大三座 小十一座 (刊本258頁/PID 1442211,164コマ)

一方,武蔵国にもツツキ系の郡名が記録される.『万葉集』巻20の天平勝宝7年(755)の防人歌左注は「都筑郡」,『倭名類聚鈔』『延喜式』も「都筑郡」,『続日本後紀』承和5年(838)2月22日条の利用刊本は「都築郡」と記す[35][3][4][34].これは,京都南部の山城国綴喜郡と,後にツツキ系の武士が活動する武蔵国都筑郡という,二つの地域を考える基礎となる.

右一首都筑郡上丁服部於田 右一首妻服部呰女 (『万葉集』巻20,西本願寺本,PID 1242481,40コマ)

庚戌。武藏國都築郡枌山神社預之官幣。以靈驗也。 (『続日本後紀』承和5年2月22日条,刊本243頁/PID 991093,129コマ)

3.5 古代文献の祖系伝承

古代文献には,山代・山城に関わる祖系伝承も伝わる.『古事記』は天津日子根命を山代国造等の祖とし,『日本書紀』も天津彦根命を山代直等の祖と記す[1][2].『先代旧事本紀』巻3は,饒速日尊の随伴者として「天伊岐志邇保命」を掲げ,「山代國造等祖」と注記する[1].『新撰姓氏録』の山代直条は火明命との関係を記す[32].これらは古代の地域と氏族をめぐる伝承の比較資料であり,本稿では地名史・武士名の記録を中心に論じる.

3.6 小括

京都南部に古代からツツキ地域が実在したことは,宮号,地名,郡名,郷名及び郡名の訓によって確認できる.とくに継体天皇の筒城宮は,511年の筒城への遷都と518年の弟国への遷都という記事により,この地域を6世紀初頭の王宮の歴史に結び付ける.古代文献の表記は都都紀・筒木・筒城・綴喜であり,この地域に対応する「綴木郡」の具体的用例は次章の中世・近世文書翻刻にある.地名の歴史と,それぞれの資料で採られた漢字表記を併せて示すことで,綴木という名称の歴史的な基盤が明瞭になる.

4 京都南部の地名「綴木」と姓氏資料

「綴木」は,山城国の郡名を記す中世・近世文書の刊行翻刻に現れる歴史的表記である.また,近代の古語辞典・歴史研究書は京都南部のツツキ地域を「綴木」と表し,姓氏辞典は綴木を綴喜に関係する姓氏として採録する.地名資料,研究書及び姓氏分類を相互に照合することで,綴木という名称が用いられてきた具体的な文脈を示せる.

4.1 1234年・1706年の文書に記される「綴木郡」

4.1.1 天福2年(1234)僧圓定田地寄進状

天福2年9月22日付「僧圓定田地寄進状」は,『大日本古文書 家わけ第十八 東大寺文書之九』849号,119―120頁に収められている.公開版面の119頁には,寄進田地の所在が次のように記される[50].

在山城國綴木郡大住郷香嶋里拾參坪内

「山城國綴木郡大住郷」という具体的な所在句により,「綴木」が山城国綴喜郡を指す地名表記として用いられたことを確認できる.これは単に似た字が存在するという事例ではなく,国名・郡名・郷名を伴った土地文書の記載である.版面では「綴木」が明瞭に印刷され,当該箇所に「喜」への訂正注はない.

同じ文書は『鎌倉遺文 古文書編 第7巻』(1974年)145頁,4690号にも対応する.東大寺文書関係一覧は,日付・寄進者・地域・文書所在を結び付けて整理し[60],「ムラの戸籍簿」データベースは同巻を出典として「在山城国綴木郡大住郷香嶋里拾参坪内」と採録する[61].二書は同一の寄進状を収める.本稿の直接の確認媒体は学術翻刻の版面と公開採録であり,原文書の所在探索には史料編纂所の案内がある[62].

4.1.2 宝永3年(1706)市辺村口上書

宝永3年8月の市辺村口上書は,編集見出しで「市辺村百姓十四名が村方、諸講からの排除を訴える」文書とされ,「市辺自治会文書」と所蔵が記される.提供された翻刻画像の差出部分は次のとおりである[51].

山城綴木郡 市辺村百姓

「木」の右脇には小字「(喜)」が付される.翻刻が「綴木」を本文として掲げ,「喜」を傍注に示していることは,綴木と綴喜の対応を読み取るうえで有用である.1234年の寄進状とは別の,近世の村方文書における用例として位置付けられる.

図1 宝永3年(1706)市辺村口上書の刊行翻刻.差出部分の「山城綴木郡」と,小字「(喜)」を確認できる.提供画像,市辺自治会文書.

図1 宝永3年(1706)市辺村口上書の刊行翻刻.差出部分の「山城綴木郡」と,小字「(喜)」を確認できる.提供画像,市辺自治会文書.

掲載刊本の照合候補には,城陽市教育委員会『史料が語る城陽近世史 第1集 青谷地域編』(1984年)がある[63].現在の引用は提供された翻刻画像による.両文書を併せると,山城国綴喜郡に対応する「綴木郡」が,中世・近世という異なる時期の文書に伝えられていることが分かる.

4.2 松岡静雄『日本古語大辭典』の「山城國綴木郡」

松岡静雄『日本古語大辭典』語誌篇(刀江書院,1929年)864頁は,地名項目の見出しを「ツツキ(綴喜、筒木、筒城)〔地〕」とし,関連する宮の説明に「綴木」を用いる[5].

ツツキ(綴喜、筒木、筒城)〔地〕

和名抄山城國綴喜郡綴喜(豆々木)

繼體天皇の宮號〔紀〕。山城國綴木郡普賢寺村字多々羅の都谷が其遺跡と傳へられ…… (「ツツキ(筒木)の宮」の説明,864頁/447コマ)

この「山城國綴木郡」は,普賢寺村字多々羅の都谷という具体的な所在地を伴う.古代の筒城宮を京都南部に位置付ける説明の中で,綴木の表記が用いられた刊本上の事実として採用できる.見出しの綴喜・筒木・筒城と,説明文の綴木をそれぞれの箇所に即して提示する.

4.3 菊池山哉の「山代綴木」「山城ノ綴木」

菊池山哉『蝦夷と天ノ朝の研究』(東京史談会,1966年)では,後篇第7章第4節の200頁本文に「山代綴木の荏名ツ姫」,201頁系図に「山城ノ綴木ノ荏名津姫」が記される[6].同じ見開きには「綴喜郡江津村」「大筒木の真若王」「筒木ノ真若王」等もあり,複数の表記が使い分けられている.

図2 菊池山哉『蝦夷と天ノ朝の研究』(1966年)200―201頁.本文の「山代綴木」と系図の「山城ノ綴木」,及び綴喜・筒木・大筒木の併用.色線は提供画像上の加筆.

図2 菊池山哉『蝦夷と天ノ朝の研究』(1966年)200―201頁.本文の「山代綴木」と系図の「山城ノ綴木」,及び綴喜・筒木・大筒木の併用.色線は提供画像上の加筆.

菊池の著書では,「綴木」が本文と系図の双方に用いられ,古代山代・山城のツツキ地域を表す名称として論述に組み込まれている.本文と系図にまたがるこの反復使用を,菊池の著述における古代地理と「綴木」表記の対応を示す具体的な用例として評価する.

4.4 丹羽基二が明記した綴喜の「関連姓氏」

丹羽基二『難姓・難地名事典』(新人物往来社,1994年)の凡例は,③欄を「おもな関連姓氏」と定義する[56].

二つ、①はおもな所在地
②略注
③おもな関連姓氏

図3 丹羽基二『難姓・難地名事典』の凡例.③欄を「おもな関連姓氏」とする定義.

図3 丹羽基二『難姓・難地名事典』の凡例.③欄を「おもな関連姓氏」とする定義.

164頁右側の「綴喜(つつき・つづき)」項は,①所在地を「京都府綴喜郡」とし,③関連姓氏欄に「綴・続・津築・綴木・綴城・」を掲げる.したがって,同辞典は「綴木」を京都府綴喜郡の綴喜に関係する姓氏として明示的に採録している.凡例と項目本文を照合することで,この記載の意味は明確に読める.

図4 丹羽基二『難姓・難地名事典』(1994年)164頁.右側の「綴喜」項は,所在地に京都府綴喜郡を挙げ,③関連姓氏欄に「綴木」を掲げる.

図4 丹羽基二『難姓・難地名事典』(1994年)164頁.右側の「綴喜」項は,所在地に京都府綴喜郡を挙げ,③関連姓氏欄に「綴木」を掲げる.

同項は綴喜を瑞祥文字と説明し,築城との関連を推量形で述べるほか,地形に基づく別説を紹介する.左側の同見出しの別項目にも,土を築くこと,地形の連続,佳字化等の説明がある.これらは同辞典に収められた語源説として位置付ける.本稿が重視するのは,語源の一説を確定することよりも,綴喜と綴木の関連を姓氏資料が明記しているという事実である.

この姓氏分類を,前近代文書の「綴木郡」,松岡・菊池の地理的用例,次章の佐竹家関係系図の氏称記事と併せると,地名としての綴木と人物・姓氏としての綴木を,具体的な史料に基づいて検討できる.

4.5 主要史料を通じて確認できること

表1 綴木という名称を支える主要な記録

資料記載積極的に読み取れる事実
1234年僧圓定田地寄進状[50]山城國綴木郡大住郷学術翻刻に採録された,山城国綴喜郡に対応する地名表記.
1706年市辺村口上書[51]山城綴木郡,小字(喜)近世村方文書の翻刻にも綴木郡が現れ,綴喜との対応を示す.
松岡静雄,1929年[5]山城國綴木郡普賢寺村字多々羅京都南部の宮跡を説明する具体的な地理表記.
菊池山哉,1966年[6]山代綴木/山城ノ綴木本文と系図に反復される,古代地理に関わる名称使用.
佐竹家関係系図,1993年刊[52]千三郎 綴木氏を称武家系図に記録された「綴木」という氏称.
丹羽基二,1994年[56]綴喜の③おもな関連姓氏に綴木綴喜と綴木の関係を明示する姓氏分類.

4.6 小括

京都南部の古いツツキ地域に対応する「綴木郡」は,中世・近世の文書翻刻に記録され,近代の辞典・研究書にも地理的文脈を伴って用いられている.さらに,姓氏辞典は綴木を綴喜の関連姓氏として掲げる.これらの記録は,綴木という名称の歴史的実在と,京都南部の地名との関係を示す積極的な根拠である.

5 武士の名・武士団名と武家系図の「綴木氏」

ツツキ系の名称は,中世武士の名と武士団名として史料に現れ,近世の人物を記す佐竹家関係系図には「綴木氏を称」と明記されている.本章では,武士としての活動や奉公関係を伝える記載を先に示し,綴木という名称と武家との歴史的な関わりを論じる.

5.1 馬術・馬飼の名手として伝わる綴喜平太経家

橘成季『古今著聞集』(1254年成立)巻10馬芸の経家説話は,ツツキ系の名称と武家への奉公を結ぶ重要な記録である.宮内庁書陵部本(500・21,目録上は江戸初期写)では「つつきの平太経家」と記される[33].

つつきの平太経家 (書陵部本500・21,国書データベース100190287,画像264左頁.くずし字を通行字体に翻字)

山崎麓校註の1926年刊本は「綴喜平太經家」と表記し,武蔵国の住人で馬乗り・馬飼に優れ,平家の郎等であった人物として紹介する[7].

武蔵國の住人綴喜平太經家は、高名の馬乘馬飼なりけり。平家の郞等なりければ、鎌倉右大將めしとりて、景時に預けられにけり。 (刊本565頁/311コマ)

続いて,景時に預けられた経家が赦免され,厩の別当となる経緯と,頼朝の狩猟への随行が語られる.

但し囚人經家ぞ候……勘當ゆるされて、厩の別當になされにけり……經家いふかひなく、入海して死にければ知るものなし。 (刊本566―567頁/312コマ)

幕下、富士川あひざはの狩に出でられける時は…… (刊本566―567頁/312コマ)

この説話が伝える経家は,平家への奉公,頼朝方との関係,馬術・馬飼の技能及び厩の職務という,武家社会の中で活動する具体的な人物像を備えている.「綴喜」が武士の名に用いられた記録として積極的に評価できる.利用伝本の仮名「つつきの」と刊本の「綴喜」は,それぞれの表記で示す.狩猟や最期の記事には年・合戦名を補わず,説話の記載に沿って読む.

5.2 『吾妻鏡』に記録された頼朝の随兵・都筑平太

鎌倉幕府の事績を記す『吾妻鏡』の利用刊本(正宗敦夫編,1930年)には,文治元年(1185)10月24日条の随兵60人の列と,建久元年(1190)11月7日条の行列に「都筑平太」が記される[8][9].

次隨兵六十人……都筑平太…… (文治元年10月24日条,刊本216―218頁/122―123コマ.列挙の見出しと人名を抜粋)

廿一番……都筑平太…… (建久元年11月7日条,『吾妻鏡 第3』56―57頁/31コマ)

都筑平太は,頼朝に随従する人物として年代を伴って記録されている.『古今著聞集』の経家説話とは別の幕府編年史に,ツツキ系の名を持つ武士が現れる点が重要である.両書の記載は,ツツキ系名称と武士社会との関係をそれぞれ具体的に示す.

経家と都筑平太の関係については,通称「平太」,活動する時代及び頼朝方との関係が対応する.近代の研究書や地域史でも両者を結び付ける叙述が行われてきた.本稿では各史料に記された名を保って提示し,人物同定は研究史上の問題として扱う.

表2 経家・都筑平太について史料が記録する武家との関係

史料人物表記記載内容
古今著聞集・書陵部本[33]つつきの平太経家武蔵国住人の馬芸説話.平家郎等から頼朝方の厩の職務に関わる人物として叙述.
古今著聞集・1926年刊本[7]綴喜平太經家馬乗り・馬飼の名手,平家郎等,景時預かり,赦免後の厩別当.
吾妻鏡・1185年条[8]都筑平太頼朝の随兵60人の列に記載.
吾妻鏡・1190年条[9]都筑平太頼朝の行列の廿一番に記載.

5.3 綴喜党・綴党とその武力活動

『平家物語 中編』(三教書院,1935年)244頁の「坂落」には,一ノ谷合戦の場面に「綴喜黨」が登場する[10].

……西黨,綴喜黨,總じて私の黨の兵共,源平互に亂れあひ…… (刊本244頁/125コマ)

この記載では,綴喜党が他の党とともに兵を擁する集団として描かれている.「綴喜」が個々の武士の冠称に加え,戦闘に関わる集団の名称としても伝えられていることを示す.

『源平盛衰記』寛永刊本の巻21「小坪合戦事」には,治承4年(1180)の相模・小坪の戦闘を語る文脈で,武蔵国住人の綴党と,その大将である太郎・五郎兄弟が登場する[11].

武藏國ノ住人綴黨ノ大將ニ太郎五郎トテ兄弟二人アリ (巻21,PID 2544838,17コマ右頁,14丁裏)

続く版面には,綴太郎が畠山の郎等を名乗り,和田小次郎と戦う叙述がある.地域,党名,兄弟関係,主従関係及び戦闘相手が具体的に記されており,綴党を武士団として伝える内容は明瞭である.両軍記の党名は各利用本文の表記を保持し,物語中に記録された武士団の活動として採用する.

5.4 研究書・地域史に受け継がれた綴党の記録

『昭島市史』(1978年)446―448頁の公開本文は,綴党を綴喜党とも記し,都筑郡に位置付け,『古今著聞集』の経家説話を引用する[77].この整理は,地名・党名・人物名を関連付けて検討してきた地域史研究の一例である.横浜市立図書館の『緑区史 資料編 第1巻』公開目次にも,綴太郎・綴党・綴喜党・都筑党・都筑平太の関係項目があり,関連史料をたどる手掛かりとなる[78].

石野瑛『皇国史と武相郷土』(1941年)は,綴党を旧都筑郡内に置き,経家をその一人と説明する.本稿で継承するNDL OCR転記の該当部分は次のとおりである[15].

尙また綴黨があつて舊都筑郡内の地に居た。馬乘馬飼に高名の都筑平太經家もこの族の一人である。 (98―99頁相当/57コマ,従前稿のNDL OCR転記)

これは石野による人物同定と集団帰属の説明として採録する.後続の元寇に関する文は小弐父子と武藤氏を主語とするため,ここでは綴党・経家に関する二文を示した.研究書・地域史の叙述は,古典史料をどのように読んできたかという研究史の根拠になる.

5.5 日奉氏系西党の都筑地域への展開と平治の乱

日奉(ひまつり)氏を祖系とする西党の地域的展開と,その一族の平治の乱への関与は,武蔵の武士社会を理解する具体的な背景となる.佐藤春夫『武士の勃興』と『八王子物語』の該当箇所を対応させると,多摩川沿岸から都筑地域に及ぶ武士団の展開と,京都での源氏の軍事活動への参加を読み取ることができる.[13][86]

5.5.1 『武士の勃興』が記す西党と都筑郡

佐藤春夫『武士の勃興』(1959年)37頁は,西党について次のように述べる(付録の図10).

別に西党を加える伝えもある。日奉氏の裔で、多摩川の沿岸に発展した。平山・由井・田村などの諸氏にわかれて、橘樹・都筑の両郡に及んだ。

この記事は,日奉氏系の西党が多摩川沿岸に発展し,平山・由井・田村などの諸氏に分かれ,都筑郡にも及んだとする説明である.ここに記された「都筑」は郡名であり,本稿では西党と都筑地域との関係を述べた文献として採用する.日奉氏系武士団の地域的広がりを,具体的な氏名・郡名によって示す内容である.[13]

5.5.2 『八王子物語』が伝える平山季重の上洛と潜伏

『八王子物語―古代より現代まで』上・改訂版の114―115頁は,日奉氏系の西党を説明し,平山氏を由井氏と親類関係にある一族として位置付ける.浅川沿いの平山村を拠点とする一族の説明に続いて,平山季重の保元・平治両乱への参戦と敗戦後の動向を次のように述べる(付録の図11).[86]

保元、平治両乱には源氏(義朝)の招きに応じて京都に出馬した。源氏破れて平氏支配の二十年を此地に潜んで、時勢のめぐりくるのを待った。

この叙述では,武蔵に拠点を持っていた平山季重が,源義朝の招きに応じて上洛・参戦し,敗戦後は当地で潜伏したという順序になっている.同書は,後に季重が源頼朝のもとへ参じたことも続けて記し,源氏との関係を保元・平治期から頼朝の時代まで論じている.

5.5.3 敗戦後の流入と多摩川沿岸の武士勢力

同書115頁の「源氏の御家人」節は,平治の乱での敗戦後に,源氏関係の公卿・僧侶なども各地へ亡命し,多摩川両岸の村々が亡命者を迎えたと説明する.

源氏は東国武士ばかりでなく、源氏関係の公卿僧侶なども各地に亡命した。

同書は,源氏関係者を迎えた多摩川両岸の地域が,横山氏・平山氏などの勢力圏であったと記す.日奉氏系の平山氏が既に武蔵に拠点を持っていたという前段と,乱後の亡命者流入とは,このように対応させて読むことができる.[86]

両書を合わせると,日奉氏系西党の都筑地域への展開,その一族の京都での参戦,敗戦後の武蔵での潜伏と亡命者の受け入れが,関連する歴史的背景として整理できる.本節は,武蔵の在地武士団と平治の乱を具体的に結び付ける文献的根拠を示すものであり,都筑平太・綴喜党・綴党の所属や移住は,それぞれを記す史料に即して検討する.

5.6 佐竹家関係系図が明記する「綴木氏」

渡邉喜一編・山中良二郎監修『新編佐竹七家系図』(加賀谷書店,1993年)は,佐竹壱岐家・式部家・左近義方家・北家・東家・南家・西家を対象とする刊行系図である[52].提供された図5の人物記事には,「千三郎 綴木氏を称。」と記される.人名の第二字は三画の「三」である.

千三郎 綴木氏を称。
享和二年壬戌(一八〇二)七月二日 生。
文化三年丙寅(一八〇六)九月二十五日 袴着。
同八年辛未(一八一一)八月十六日 没。十歳。 (図5の氏称・年紀部分.改行は引用の整理による)

図5 『新編佐竹七家系図』の千三郎条として提供された画像.「綴木氏を称」と,享和2年出生,文化3年袴着,文化8年没の記載.母欄には戸村氏,義敬五女とある.

図5 『新編佐竹七家系図』の千三郎条として提供された画像.「綴木氏を称」と,享和2年出生,文化3年袴着,文化8年没の記載.母欄には戸村氏,義敬五女とある.

この記載の意義は,武家の系図に「綴木」という同じ漢字表記の氏称が,特定人物に結び付けて明記されていることである.対象人物は1802―1811年の千三郎であり,中世の綴喜・都筑・綴といった関連表記に加え,綴木そのものが武家の人物氏称として記録されている.本稿において,綴木という氏称と武家との関係を示す中核の史料である.

母欄には「母 戸村氏。」と「義敬五女」があり,出生・袴着・没年とともに人物を照合する手掛かりとなる.「十歳」は1802年出生・1811年没の数え年と整合する.秋田県立図書館の調査回答によれば,1993年版は原武男編『新編佐竹氏系図』(1973年)の付録「佐竹氏五家略系図」を基礎に増補された[79][80].

確認媒体は提供された刊行系図の画像であり,掲載頁と親見出しは画像外である.世襲・家督・門司家との系譜接続を論じる際には,系図の前後頁と各家の記録を照合する.この照合範囲を明示することは,現に記された「綴木氏を称」という氏称記事の価値を減じるものではない.

5.7 小括

中世史料には,綴喜平太経家の武家への奉公,都筑平太の頼朝への随従,綴喜党・綴党の武力活動が記録されている.さらに,佐竹家関係系図は「綴木氏を称」と明記する.これらを通じ,ツツキ系名称が武士の名・武士団名に用いられ,綴木という氏称も武家の系図に記録されたという,積極的な結論が得られる.門司綴木家の由来を考えるうえで,武家との関係を検討する史料的根拠は具体的に存在する.各地の家をつなぐ世代関係は,次章以後で扱う門司側の家資料と照合する課題である.また,日奉氏系西党の都筑郡への展開と,平山季重の保元・平治両乱への参戦を伝える文献は,武蔵の武士団と京都の軍事・政治情勢との関係を具体化する.

6 徳島の分出家伝と門司綴木家の家族記録

綴木は,武家の氏称を記す系図に加え,徳島の町誌と門司の家族・地域記録にも残る名称である.本章では,実在する地名に結び付いた分出家伝,近世の年紀を伝える墓碑,近世末出生者を記す除籍謄本を取り上げる.それぞれの資料が伝える具体的な人名・年代・続柄を,綴木家の歴史を復元する基礎として位置付ける.

6.1 『相生町誌』が伝える赤松高瀬綴木家

相生町誌編纂委員会編『相生町誌』(相生町,1973年)の部落史編・世帯表には,「赤松高瀬綴木家」からの分出を伝える記事がある.提供画像の世帯主欄は「葛木」,備考欄は「農業・かつらぎ西」と記し,次の家伝を載せる([53][83]).

先祖は赤松高瀬綴木家より分れて来たが、詳細不明

図6 相生町誌編纂委員会編『相生町誌』(相生町,1973年)部落史編・世帯表.「葛木」姓の世帯に,赤松高瀬綴木家からの分出家伝を記す.提供情報では464頁.必要な姓・備考欄を掲載した.

図6 相生町誌編纂委員会編『相生町誌』(相生町,1973年)部落史編・世帯表.「葛木」姓の世帯に,赤松高瀬綴木家からの分出家伝を記す.提供情報では464頁.必要な姓・備考欄を掲載した.

この記事の要点は,先祖の出自を具体的な地名と家名によって記録していることである.「葛木」と「綴木」という異なる表記の家を結ぶ分出家伝が,1973年刊行の町誌に保存されている.「詳細不明」は,分出時期や事情に説明が及んでいないことを示す.本稿は,町誌が採録した家伝として内容をそのまま重視する.

分出元の赤松高瀬は実在する.美波町の公的所在地表記は,高瀬集会所を「美波町赤松字高瀬213番地」と記す([54]).1973年当時は徳島県海部郡日和佐町,現在は美波町に属する.1956年の赤河内村・日和佐町の合併と,2006年3月31日の日和佐町・由岐町の合併は,公式沿革と旧新住所対応によって確かめられる([81]).採録地の旧相生町は,2005年3月1日の合併後の那賀町域に当たる([82]).家伝の出発地と採録地を地域史の上に位置付けられることは,その地理的具体性を支える.

この家伝を詳しくたどるための資料として,町誌の原調査票,両地域の戸籍・過去帳・土地資料が挙げられる.「日和佐町の古文書調査」が案内する1976年3月刊『徳島県史料所在目録7』も所在探索の手掛かりとなる([84]).電話帳由来の姓氏分布資料は徳島県内の調査先を絞る補助に用いる([55]).分出者・年代・移動経路は今後の具体化の対象であり,現在採用する事実は,町誌に記録された分出家伝と実在地名との対応である.

6.2 庄司町の地名由来と綴木家の庄屋伝承

門司綴木家については,家の由来をめぐる伝承に加え,庄司町墓地の墓碑とその写真記録,家蔵の除籍謄本,近代の市史・名簿・地図がある.とくに,近世の年紀を伝える墓碑と,天保2年出生の綴木熊蔵を記す公的家族記録は,近代の人物記録を時間的に掘り下げる重要な資料である.各資料について,著者の観察,掲載画像の読取り,従前の刊本照合という確認方法を明示する.

著者家には,近世の先祖が大庄屋・庄屋であったという家伝がある.『角川日本地名大辞典』40・福岡県の「庄司町〈門司区〉」項は,その地域の地名由来を次のように説明する(図13).[17]

当地付近は旧楠原村に当たり,当時庄屋がいたことにより集落一帯の広範囲を庄司と通称。

同項は,明治期に庄司山麓の段々畑を整地してできた町が「庄司町」と通称されるようになったと続ける.庄司という地名が庄屋の存在に由来するという刊行辞典の記述は,綴木家の庄屋伝承と,地域に庄屋が存在したという点で符合する.家伝を当地の村落史に位置付ける具体的な根拠であり,家伝の地域的背景を補強する.辞典のこの記事は地域の庄屋の存在を伝え,綴木という家名は著者家の伝承が伝える.両者の対応を,墓碑・除籍に加わる地域史資料として重視する.[17]

近世の奉公・家格・村役をさらに調べる資料として,『門司郷土叢書』所収の小森江村・吉志村等の人別・宗門改帳,『大日本近世史料 小倉藩人畜改帳二』所収の元和8年(1622)「豊前国規矩郡人畜改帳」門司部分がある([46][49]).1787年の分限帳,1857年の『小笠原藩侍帳』,1862年の小倉藩士分限帳,1866年の知行帳,永青文庫の「豊前之国ニ而之御侍帳」「豊前国中津附御侍帳」「豊前御侍帳」等も所在が案内されている([47][48]).これらは次の照合先であり,近世身分の呼称は該当する家・人物の記載に即して扱う.現在の確認範囲をもって,門司綴木家の武家由来を否定する判断は行わない.

6.3 庄司町墓地の墓碑群――現物の一次資料と写真記録

庄司町墓地の綴木家関係墓碑は,先人の仏教名,年紀,墓碑の形態,家紋及び墓所の配置を伝える現物の一次資料である.前版で収録した原写真19点(図15―33)に,綴木興七の墓碑の原写真と著者提供の台形補正画像(図34・35)を加え,写真資料21点を掲載する.従前の現地観察に加え,墓碑に刻まれた姓・名と戸籍上の父子関係を,読者が画像と照合できる記録として提示する.各写真の綴木家墓所への帰属と補修の経緯は著者の説明による.[42]

6.3.1 個人墓碑の形式,配置及び家紋

著者によれば,個人墓碑は古いものも基本的に共通の形式をとり,正面に仏教名,側面に年紀を刻む.図17は,正面の枠取りと縦書き銘,頭部の形,台石を記録する代表例である.図32・図33では,左右や背後にも墓碑が続く配置を確認できる.本版の写真には一面に複数列の銘を持つ例も含まれるため,写真枚数を墓碑数や被葬者数とは数えず,個々の銘と人物の対応を調べる.

著者が最も新しい家墓と説明する図15の正面には「綴木家之墓」とあり,墓前の意匠と図16の接写から,家に伝わる「亀甲に吉」の形を確認できる.これは家名と家紋を現物に即して記録する資料である.従前に報告された他の墓石の家紋についても,個体ごとの写真と対応させて調査する.

「綴木家之墓」の正面.著者によれば最も新しい家墓.

図15 「綴木家之墓」の正面.著者によれば最も新しい家墓.

墓前の家紋「亀甲に吉」の近接写真.

図16 墓前の家紋「亀甲に吉」の近接写真.

6.3.2 写真で確認できる年紀と従前の現地観察

今回の写真では,「明和」「安永」「文政元年」の銘を確認できる.従前稿で著者が報告した明和5年(1768)から文久元年(1861)までの年紀と,「釋」を冠する4件の銘も,現地観察の記録として保持する.ただし,今回の明和の写真で確定して採録するのは元号部分であり,「五年」までの読取りとは確認方法を区別する.この区別により,写真から直接たどれる範囲と,著者の従前記録をともに資料として生かす.[42]

墓碑銘文の採録と写真の対応
対象掲載写真からの採録著者の説明・比較資料との対応
明和の年紀面
図18
「明和」.年数・月日は本写真から確定しない.従前の現地観察は明和5年を最古年紀と報告.写真上の元号確認と区別して記録する.
安永の年紀面
図19・図20
「安永」.年数・月日は未確定.著者によれば同一墓碑を異なる角度から撮影.墓碑間の隙間が狭いため斜めからの記録となった.
文政元年の年紀面
図21
「文政元年」(1818).月日は未確定.著者の現地での読取りと,掲載写真の元号・年数が対応する.
明治の年紀面
図22・図23
2枚を併せて「明治」と下部の「九」を確認.「七月九日」は判読候補,年数は未確定.著者は「明治四拾弐年七月九日」の可能性を指摘.除籍に同日の死亡が記される熊蔵の墓の候補として扱う.
個人墓碑の正面
図17・図33ほか
「釈(釋)」を冠する銘と,「信士」を末尾に持つ例を確認.仏教名の全文は未確定.正面銘と側面年紀の対応,俗名,過去帳との照合を進めるための記録.
「明和」が読める側面と,石面・稜線の状態.

図18 「明和」が読める側面と,石面・稜線の状態.

「文政元年」の側面銘.年紀は1818年に対応する.

図21 「文政元年」の側面銘.年紀は1818年に対応する.

「釈(釋)」を冠する銘は,仏教上の名(戒名・法名)として採録する.「釈」が仏弟子の名に用いられる伝統は浄土宗の辞典にも説明され,浄土真宗では法名という用語が用いられる.本稿では石面の表記を優先し,「釈」一字だけから宗派や身分を決めない.[37][88]

6.3.3 2007年の補修履歴と石材の風化

著者によれば,祖母フサヱが亡くなった2007年に,墓石を再研磨し,文字の黒色を入れ直した.これは墓所の維持・補修に関する著者の説明として記録する.現在の黒く明瞭な文字にはこの補修が反映されており,石材そのものの古さを評価する際には,石面や稜線の風化と区別して扱う.[42]

異なる年紀の存在,石面の状態の違い,及び著者が説明する個人墓碑の継承は,墓碑群が代々,時期を異にして追加されてきたという解釈を支持する.一方,石面の年紀が没年を表す場合には建立年と同一とは限らず,風化の違いだけで個々の造立時期を確定することはできない.本稿では,近世以降の異なる年紀を刻み,代々追加されてきたと考えられる墓碑群として位置付ける.

6.3.4 熊蔵の墓の候補と除籍謄本との照合

図22・図23の側面銘について,著者は「明治四拾弐年七月九日」という読取りの可能性を指摘した.第6.4節の除籍謄本には,綴木熊蔵の死亡日として同日が明記されている.この一致の可能性は墓碑と公的家族記録を結び付ける具体的な調査の手掛かりであり,本版では熊蔵の墓の候補として写真を収録する.ただし,写真上の年数は未確定であるため,戸籍の日付を墓碑の確定翻刻として補入せず,正面の仏教名と過去帳・他面の銘文との対応によって同定を進める.[41][42]

6.3.5 綴木興七の墓碑と江戸期の綴木姓使用

新たに提供された興七の墓碑の原写真(図34)と台形補正画像(図35)には,縦書きの「綴木 興七」が読める.台形補正画像は著者が提供した判読補助資料として,対応する原写真と併載する.姓と名が一体で刻まれていることに,家名を伴う人物記録としての意義がある.[42]

綴木興七の墓碑.氏名を刻む面を斜めから撮影した原写真

図34 「綴木 興七」の銘を記録した原写真.

綴木興七の墓碑の台形補正画像.綴木興七の四文字が縦に並ぶ

図35 著者提供の台形補正画像.原写真と併せて氏名を判読する.

図7の除籍謄本では,天保2年12月29日生まれの熊蔵の父が「亡 綴木 興七」と記され,熊蔵の続柄は「長男」である.この父子関係と墓碑銘の氏名の一致により,興七の墓碑を熊蔵の父の記録に対応する資料として位置付けられる.天保生まれの熊蔵より一世代前の人物が,戸籍と墓碑の双方に「綴木 興七」と記録されている.[41][42]

この対応は,門司綴木家が江戸期から綴木姓を用い,父興七から熊蔵へと家名を継承したと考えることを支持する具体的な史料的根拠である.本稿では,父子関係と氏名の一致を確認事項とし,江戸期の姓使用・継承をそれらに基づく歴史的推定として積極的に位置付ける.墓碑の他面の年紀や過去帳との照合は,この姓使用の時間的位置付けをさらに具体化する調査となる.

6.3.6 墓碑群が支える家の歴史と武家由来の検討

この墓碑群は,門司綴木家の先人の名と年紀,供養の形式,家紋及び墓所の維持を,現物に即して検討できる史料基盤である.個人別の墓碑を複数造立し維持してきたことは,そのための経済的基盤と先祖供養の継承をうかがわせる.共通する型式は家の供養方針や慣習を考える手掛かりであり,近代の家主・会社役員等の記録や私設綴木公園の記事と併せ,地域に根付いた家の歴史を検討する資料となる.

墓碑の形態・規模と階層性との関係は,筑前秋月を対象とする時津の研究で検討されている.同研究は加峯家のほぼ統一された墓碑群を,一般的な型式と家固有の方針の両面から論じ,有力商家・興膳家の大きな墓碑については経済力を反映した可能性を指摘する(118―120頁).本稿でも,型式の共通性と経済的評価を分け,「地域でも特に裕福であった」という比較評価は,同時期・同地域の墓碑や財産関係史料との照合により具体化する.[39]

また,谷川が紹介する天保2年(1831)の規制は,百姓・町人の院号・居士号と高さ120cmを超える墓石を対象とするもので,庶民の建墓全般や「釈」の使用禁止を述べたものではない(292頁).本稿は「庶民は墓碑を建てられなかった」という一般化を論拠にせず,第5章の武士名・武家氏称と,門司側の墓碑・除籍・庄屋伝承をそれぞれの内容に即して総合する.[87]

綴木家の武家由来を支える既存の文献上の根拠に,門司側の墓碑という一次資料を加えることにより,家の由来に関する議論を,具体的な家族史と供養の継承に根差して進めることができる.写真は,この議論の門司側の資料を第三者が参照・検討できる形で提示するものである.

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6.4 除籍謄本が記す綴木熊蔵と家族

綴木家所蔵の除籍謄本は,北九州市門司区長が2019年4月1日に交付・認証した2葉である([41]).図7の人物欄と図8の認証欄を掲載する.熊蔵欄には,出生「天保弐年拾弐月弐拾九日生」,死亡「明治四拾弐年七月九日死亡」とあり,綴木熊蔵が天保2年12月29日に生まれ,明治42年(1909)7月9日に没したことを公的家族記録が伝える.出生年月日は戸籍による遡及記載であり,旧暦のまま示す.2019年は謄本の交付年である.

同じ画像には,熊蔵と戸主との続柄「祖父」,戸主「綴木増之助」,増之助の出生「明治弐拾六年四月八日生」,父「亡 綴木安吉」,前戸主との続柄「亡 綴木安吉 長男」が読める.したがって,熊蔵が増之助の祖父であること,安吉が増之助の父であり,増之助が安吉の長男であることを確認できる.家族史の具体的な連続を示す記載である.

さらに図7の熊蔵の父欄には,「亡 綴木 興七」と記され,下段に「長男」とある.2026年9月25日に再提供された同じ人物欄の画像を,掲載済みの図7及び墓碑写真(図34・35)と照合することで,父の名を「興七」と採録する.この除籍は,綴木興七が熊蔵の父であり,熊蔵がその長男であることを伝える公的家族記録である.墓碑にも同じ「綴木 興七」が刻まれており,興七―熊蔵という世代関係と,両者に記録された家名を対応させられる.[41][42]

図7 綴木家所蔵の除籍謄本の人物欄.熊蔵の父欄に「亡 綴木 興七」,その下に「長男」とある.熊蔵の出生「天保弐年拾弐月弐拾九日生」,生没と増之助との祖孫関係,増之助の出生と父安吉の記載を確認できる.父の氏名は再提供画像及び図34・35の墓碑銘と照合した.2019年4月1日交付,2葉の1の部分画像.従来の公開範囲を維持し,高次欄,本籍の詳細番地及び発行番号は掲載範囲外.

図7 綴木家所蔵の除籍謄本の人物欄.熊蔵の父欄に「亡 綴木 興七」,その下に「長男」とある.熊蔵の出生「天保弐年拾弐月弐拾九日生」,生没と増之助との祖孫関係,増之助の出生と父安吉の記載を確認できる.父の氏名は再提供画像及び図34・35の墓碑銘と照合した.2019年4月1日交付,2葉の1の部分画像.従来の公開範囲を維持し,高次欄,本籍の詳細番地及び発行番号は掲載範囲外.

図8 同除籍謄本の認証欄.「この謄本は,除籍の原本と相違ないことを認証する。平成参拾壱年四月壱日 北九州市門司区長 上田伸一」と記す.2葉の2の部分画像.

図8 同除籍謄本の認証欄.「この謄本は,除籍の原本と相違ないことを認証する。平成参拾壱年四月壱日 北九州市門司区長 上田伸一」と記す.2葉の2の部分画像.

6.5 記録に基づく家族関係

興七―熊蔵の父子関係(熊蔵は興七の長男),熊蔵―増之助の祖孫関係,及び安吉―増之助の父子関係は,掲載画像に明記された続柄である.高次については,前稿が「明治参拾弐年拾壱月拾日生/弟/亡 綴木安吉/トミ/三男」と翻刻しており,増之助の弟,安吉の三男という確認記録を継承する.高次欄は現在の切抜き外にあるため,前稿翻刻として区別する.熊蔵―安吉の直接の続柄と前後世代は,全葉・前後戸籍で接続を確かめる.

これらの記録により,門司綴木家の歴史は,姓の由来をめぐる抽象的説明から,出生・死亡・戸主・父子・祖孫という人物単位の記述へ進む.戸籍に記された近世末出生者と近代世代を軸に,墓碑,家伝,地域の刊行物を対応させることができる.

6.6 家の歴史を支える年代の広がり

門司関係資料には,著者の従前観察における明和5年(1768),掲載写真で確認できる明和・安永・文政元年の銘,熊蔵の天保2年12月29日出生と父興七の氏名,墓碑の「綴木 興七」銘,1913年の綴木六郎の会社役員記載,地名辞典が伝える1917年の私設綴木公園開設,1932年刊地図の綴木遊園地名という年代の広がりがある.年紀,出生,刊行時の人物掲載,施設名称は,それぞれ異なる形で過去の綴木家・綴木姓を記録する.本稿での早い確認例を家の成立年と同一視せず,各資料の時間的役割を保ったまま総合する.

6.7 小括

徳島では町誌が赤松高瀬綴木家からの分出家伝を保存し,門司では近世の年紀を刻む墓碑とその写真記録,興七・熊蔵・安吉・増之助らの公的家族記録が残る.とくに,熊蔵の父興七の氏名が戸籍と墓碑で一致することは,江戸期からの綴木姓使用と家名の継承を支持する根拠となる.さらに,庄司町の地名由来は,地域に庄屋が存在したという点で綴木家の家伝と符合する.これらは綴木家の歴史に具体的な地域・人物・年代を与える成果である.第5章の武家氏称に関する記録と併せ,名称史と個別の家の歴史を照合する基盤となる.各地域の家同士の接続は,その基盤の上で進める別段階の課題として扱う.

7 近代門司における綴木姓の活動記録

近代の門司には,会社役員,家主,商工録掲載者,市会議員として綴木姓人物が記録され,地名辞典には1917年の「私設綴木公園」開設,市の刊行地図には「綴木遊園地」の名が残る.本章は,姓が使われていた事実に加え,記録された職業・公職・施設名を通して地域社会における具体的な活動を示す.公刊資料の確認記録は従前の照合を継承し,掲載地図は今回も読取りを行う.

7.1 私設綴木公園の開設・整備と市刊地図の記録

7.1.1 1917年の開設と桜1,500本・仲見世の整備

『角川日本地名大辞典』40・福岡県の「緑町〈門司区〉」項は,門司港地区東部の地域史として,大正6年(1917)の「私設綴木公園」開設,桜の苗木1,500本の植栽,同年末の仲見世整備を明記する(図14).[17]

大正6年桜の苗木1,500本を植え,私設綴木公園を開設。同年末に仲見世を開き本格的公園として整備して以後,民家も漸増した。

この記事は,綴木の名を持つ施設について,名称だけでなく,私設という性格,開設年,植栽本数及び商業空間の整備を具体的に伝える.1,500本の桜と仲見世を備えた公園整備は,土地利用・植栽・施設整備を伴う規模のある事業として評価できる.また,公園整備後に民家が漸増したという叙述は,公園を周辺地域の発展と併せて扱っている.[17]

7.1.2 1932年の市刊地図との対応

『門司市勢要覧』昭和7年度刊行の所収地図には,長谷付近に「綴木遊園地」と記される([18],81コマ).同冊の奥付(76コマ)は昭和7年11月10日印刷,同月15日発行とする.したがって,1932年11月15日刊行の市の冊子に,綴木の名を冠する遊園地が地図上の施設として掲載されていたことが分かる.これは綴木という名称が,個人の姓を越えて地域の施設名にもなっていたことを示す.

図9 1932年刊『門司市勢要覧』所収地図に記された「綴木遊園地」.左は周辺,右は拡大.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1448992,81コマとの従前照合を継承.同冊奥付(76コマ)は1932年11月15日発行.

図9 1932年刊『門司市勢要覧』所収地図に記された「綴木遊園地」.左は周辺,右は拡大.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1448992,81コマとの従前照合を継承.同冊奥付(76コマ)は1932年11月15日発行.

図9の「長谷」は右から左へ読む横書き地名であり,周辺地名と道路から施設の位置関係を読み取れる.地名辞典は,緑町が昭和46年(1971)に長谷1・2丁目のうちとなったと記している.地名辞典の「私設綴木公園」と,長谷付近を描く市刊地図の「綴木遊園地」は,地域と名称の両面で対応する記録である.辞典は開設・整備の経過を伝え,同時代の市刊地図は地域の施設としての名称と位置を記録する.両資料を合わせることで,綴木の名を冠した公園の歴史を具体化できる.[17][18]

7.1.3 綴木の名を冠する私設公園の意義

「私設綴木公園」という記載は,綴木の名が私設の地域施設に用いられ,その名称と整備の経過が地名辞典に残ったことを示す.名称と私設という施設の性格からは,綴木家と公園との関係が強く示唆される.これは名称に基づく解釈であり,辞典が直接に記す開設年・植栽・仲見世の事実と対応させて評価する.[17]

本稿では,綴木の名を冠する私設公園が整備され,市の地図にも施設名が記録されたことを,綴木家の地域的な存在感と経済的基盤を考える重要な資料として位置付ける.第7.2―7.4節の会社役員・家主・市会議員の記録と併せると,門司における綴木姓の歴史は,人名の記載に加え,地域の施設名や公園整備の歴史にも及ぶことが分かる.

7.2 会社・居所・営業の記録

『帝国銀行会社要録:附・職員録』大正2年(2版)の福岡県会社「も」部35頁(761コマ)は,門司潮湯株式会社の所在地を「門司市觀帆貳丁目」,設立を「大正元年九月」と記し,「取締役 綴木六郎」を掲載する([43]).会社設立は1912年9月,六郎の在任を確認する刊行資料は1913年である.これは門司の綴木姓人物が会社経営の役員として活動していたことを示す同時代記録である.本稿が照合した氏名付きの同時代刊行例では,1913年の六郎が最も早い.

1915年刊『教会便覧』1巻159頁(84コマ)の「日本浸禮教會教役者一覽」は,荒瀬鶴喜の住所を「門司市楠町六丁目綴木内」とする([44]).教役者は荒瀬であり,綴木は居所・取次先に付された姓である.門司の住所表記に綴木の名が用いられたことを示す資料として採用する.

『帝国商工録』昭和6年版九州版の福岡県「和洋料理カフェー・貸席待合」欄には,「綴木マツ子」「門司市日出町一丁目」が掲載される([45],167頁/91コマ左頁).これは1931年の商工名簿が,綴木姓人物を具体的な業種欄と所在地の下に採録した記録である.個別の営業形態や屋号は同欄に示された範囲で扱う.

7.3 家主綴木重平と綴木政夫

『日本紳士録』41版(1937年)の福岡県233頁(896コマ左頁)には,綴木重平が「家主」として掲載され,綴木政夫が同じ「門司市庄司東谷,六丁目」の住所で並ぶ([19]).重平の家主という属性を,近代門司における綴木姓人物の経済活動を示す明示的な記録として重視する.

欄外凡例は「●ハ所得税」「×ハ営業収益税」「▲ハ電話」と説明する.重平の「●七二」,政夫の「●五三」は掲載所得税額72円・53円,重平の「▲門司四一五」は電話表示である.巻頭凡例1―2頁(4―5コマ)によれば,同書の収録対象は内外名士及び第三種所得税50円以上又は営業収益税70円以上の納税者等であり,掲載には一定の編集基準があった.税額は原則昭和11年度,一部地方都市は昭和10年度の値である.この資料は,両名の所在地,重平の職業,掲載税額を具体的に伝えている.資産規模と相互の続柄は,戸籍・土地・課税の資料を対応させることでさらに明らかになる.

7.4 綴木米市の公職と武道関係記録

『門司市史』第13章「人物」839―840頁(453―454コマ)は,昭和4年(1929)4月1日の市制30年記念における感謝状・褒状・表彰状の受領者を掲げる.「二 感謝狀ノ部」の「前項以外ノ市會議員」の一覧に「綴木米市」がある([20]).市の刊行物が米市を市会議員として記録し,市制記念の感謝状受領者に掲げていることは,綴木姓人物の公的活動を示す明確な事実である.任期や議会での具体的活動は,議員履歴・選挙記録・議事録によって詳しくできる.

武道関係では,1930年の『武道寳鑒』に「綴木米市」「講四段」があるとの前稿の確認記録を継承する([21][22][85]).同書は『昭和天覧試合』附録に当たり,別表記の書誌を含め一つの刊行資料として扱う.この転記は,綴木姓人物と近代武道を結ぶ重要な資料項目である.現在のHTMLには該当名簿の版面がないため,ここでは前稿の確認記録であることを明示し,略号の展開や師範資格等を付加せずに掲げる.武家の氏称を記す第5章の系図とは時代と資料の性格を分け,近代の武道関係記録として位置付ける.

『全逓労働運動前史』上巻(1965年)についても,米市を市会議員・政治結社の党首とする前稿の確認記録がある([25]).該当頁・全文の再照合は付録末尾「追加調査の手掛かり」にまとめ,1929年の門司局集配人争議との関係,仲介の内容,依拠した同時代記録を精査する資料とする.この資料の確認水準は,掲載箇所まで確認した市史の議員記事と区別する.

警眼社編『警察年鑑』昭和5年版(1930年)352頁(190コマ右頁)は,福岡県「高等ニ關する事項(昭和三年十二月末日現在)」の「各種團體」「思想關係」欄に「大日本國柱軍門司本部,綴木組」を列記する([26]).記録対象時点は1928年末である.これは綴木の名を持つ団体の記録として採用する.同欄に米市の氏名・役職は示されないため,米市の人物史との対応は別資料で確かめる.

『官報』第3049号・号外(1922年9月28日)及び『日本之精華』(1914年)も,米市関係の照合候補として残る([23][24]).前者の米市の氏名欄と栄典区分,後者の「綴木米一」と尺八に関する該当本文は付録末尾「追加調査の手掛かり」に照合候補として示す.「米一」と「米市」は原表記を保ち,住所・年齢・職業等の対応により人物同定を進める.

7.5 小括

綴木姓人物は,門司の会社,商工業,家主としての活動,市会という複数の領域に具体的な記録を残し,綴木の名は施設名にもなっていた.地名辞典が伝える私設綴木公園の開設,桜1,500本の植栽,仲見世の整備は,綴木の名を冠する施設の具体的な規模と歴史を示す.六郎,マツ子,重平,政夫,米市の記載は,それぞれ人名・所在地・役割を伴う.米市の武道名簿に関する確認記録も,綴木姓と武道との関係を検討する資料として保持する.これらの人物と除籍に記された家族の続柄は,氏名以外の属性も照合して接続する.近世の武家氏称と近代門司の活動記録を時代別に提示することにより,綴木家の武家由来を考えるための資料の内容と,門司での具体的な歴史が明瞭になる.

8 武家由来を支える史料の総合

8.1 地名・武士名・武家氏称の対応

第3―5章の資料は,綴木という名称を武家史の中に位置付けるうえで,三つの具体的根拠を与える.継体天皇の筒城宮に代表される古代京都南部のツツキ地域と,その郡名を「綴木」と記す前近代文書翻刻は,名称の地理的・歴史的基盤を示す.筒城宮の511―518年という紀年上の位置付けは,その古代の背景を具体化する.中世の平太経家・都筑平太・綴喜党・綴党の記録は,ツツキ系名称の武士による使用を示す.佐竹家系図の「綴木氏を称」は,武家における同一字形の氏称を記録する.

地域史的な背景として,『武士の勃興』は日奉氏系の西党が都筑郡へ及んだと記し,『八王子物語』は日奉氏系の平山季重の上洛・参戦と敗戦後の潜伏を伝える.都筑地域に展開した武士団と保元・平治期の軍事活動を対応させることにより,ツツキ系武士名を考える武蔵の歴史的背景が具体化する.[13][86]

このうち,佐竹家関係系図の記事は,綴木という表記が武家の人物名に用いられたことを直接に記す資料として中心的な位置を占める.中世武士のツツキ系名称と,丹羽辞典の綴喜・綴木の関連姓氏分類は,これを名称史の広がりの中で理解する根拠となる.[7][8][9][10][11][52][56]

これらを合わせると,綴木姓の武家との関係を論じることには,地名・武士名・氏称にわたる文献的な基盤がある.各記録の成立経緯が異なることも,どの資料が何を伝えるかを把握する手掛かりとなる.同一文書の再翻刻や同一説話の再話は,元となる記録を共通にする資料として扱う.

8.2 門司綴木家の家歴に位置付ける

門司側には,大庄屋・庄屋であったという家伝,明和・安永・文政元年の銘を含む墓碑の現物資料と写真記録,天保2年出生の熊蔵と父興七を含む家族を記す除籍謄本がある.興七の氏名は墓碑の「綴木 興七」銘と対応し,江戸期からの綴木姓使用を支持する門司側の具体的な根拠となる.さらに,近代の資料には綴木姓人物の会社経営への関与,家主としての記載,市会議員としての活動が現れる.これらは,門司の綴木家及び同姓人物の地域的な基盤と社会活動を,具体的に示す記録である.

『角川日本地名大辞典』の庄司町記事は庄屋の存在を地名の由来とし,著者家の庄屋伝承と地域的に符合する.同書の緑町記事は1917年の私設綴木公園開設と,桜1,500本・仲見世の整備を記す.これらは,家伝の地域的背景と,綴木の名を冠する施設の歴史を,刊行資料の具体的な記述によって補強する成果である.[17]

大庄屋・庄屋の家伝は村落運営に関わったという家の記憶,家主・会社役員・市会議員の記録は近代の経済・公共活動として評価する.米市について伝えられる「講四段」の記載は,近代の武道活動を示す項目として位置付ける.これらは時代ごとの家歴を知る資料であり,武家での名称使用を示す中世史料・佐竹系図と併せて,綴木家の由来を考える史料基盤を構成する.

門司の地域的家歴と,綴木氏称の武家使用は,それぞれの根拠を明記して総合する.本稿では,ある時代の経済的地位や武道の段位から別の時代の身分を推定せず,史料が記す役割と活動そのものを重視する.

8.3 家の継承を具体化する手掛かり

佐竹家系図の氏称記事,徳島の赤松高瀬綴木家からの分出伝承,門司の家族記録は,今後の調査の出発点が具体的に定まる資料である.門司では除籍の前後戸籍,過去帳,宗門人別帳,土地・村方・庄屋関係資料を照合することで,記された人物とその家の継承をさらに詳しく追える.徳島では相生と赤松高瀬の関係家の記録,佐竹側では刊行系図の底本家譜が調査対象となる.

現段階で,中世の特定人物から門司までの世代関係や,各地域間の移住経路は確定していない.本稿はその経路を物語として補わず,武家における名称使用と門司の家歴という,既に得られた根拠を由来研究の成果として提示する.

9 考察

9.1 綴木氏の武家使用を論旨の中心に置く意義

綴木の由来を論じる際には,その表記の珍しさだけでなく,どのような史料に,何を指す名称として記されているかが重要である.本稿では,古代京都南部の地名史,中世武士の名称,佐竹家系図における綴木氏称を並べて検討した.とくに「綴木氏を称」という明示的な記載によって,綴木という氏称を武家の歴史に位置付ける根拠が得られる.

1234年・1706年付文書の翻刻に現れる「綴木郡」は,綴木を山城の歴史的地名表記として捉える資料である.菊池の「山代綴木」と丹羽の関連姓氏分類は,後代の研究者が綴木を古代地域及びツツキ系名称と関係付けて扱った記録である.その著者・媒体を明示することで,これらの記述を地名史・姓氏研究の成果として評価できる.

日奉氏系西党の都筑郡への展開と,その一族の平治の乱への関与は,武蔵の武士集団が京都の政争・軍事行動と結び付いていたことを伝える地域史上の知見である.名称の使用だけでなく,居住地域,上洛,敗戦後の動向を併せて読むことにより,武士社会の中でツツキ系名称が記録される歴史的環境を具体的に捉えられる.

9.2 門司綴木家の歴史を具体化する成果

門司の家族史では,熊蔵の生没年に加え,除籍の父欄から「綴木 興七」という一世代前の人物名と父子関係を具体化できる.墓碑銘にも同じ氏名が確認できることは,江戸期からの姓使用を支持する資料上の前進である.墓碑の年紀・仏教名・家紋・配置の写真記録は,家が記憶してきた先人と墓所の歴史を伝える.本版では,従前の現地観察と2007年の再研磨・文字の黒色補修に関する著者の説明を保持し,図15―33に興七の原写真・台形補正画像(図34・35)を加えた.これにより,墓碑という一次資料を参照しながら,銘文の判読と家族記録との照合を進められるようになった.近代の刊行資料は,綴木姓人物の住所・職業・役職を示し,家の由来研究を地域の社会史へと広げる.

これらの成果は,単に同じ姓を列挙したものではない.人物がどの時期に,どのような活動で記録されたかを明示することにより,綴木姓人物が門司の経済・公共生活に関与していたことを,具体的な資料に即して示している.門司の家の歴史を考える際には,武家由来の問題とともに,こうした家歴そのものの積極的価値を保持する必要がある.

今回確認した地名辞典の記事により,庄屋伝承は庄司という地名の成立事情と対応し,綴木公園は開設年・私設の性格・植栽本数・仲見世を伴う地域施設として把握できるようになった.庄屋の存在を記憶する地域に綴木家の家伝が残ることと,綴木の名が整備された公園の名称として記録されることは,門司綴木家の歴史的背景と地域的存在感を考える重要な成果である.[17]

9.3 由来研究としての到達点

本稿の到達点は,綴木家の武家由来を考える際に参照すべき具体的根拠を,京都南部の古代地名,中世の武士名,武家系図の綴木氏称,及び門司の家族・地域記録として明確にしたことにある.古代の地域名と前近代の字形,武家における氏称と門司の家の記録をそれぞれ正確に扱うことで,綴木家の由来を,史料に支えられた研究対象として論じることができる.

10 結論

本稿から得られる結論は,次の四点である.

第一に,ツツキ系地名は,古代の京都南部に遡る歴史的名称である.記紀・行政地名資料に地域名・宮号・郡名が記される.とくに継体天皇の筒城宮(『日本書紀』の紀年に対応する511―518年)は,ツツキ地域を6世紀初頭の王宮の歴史に結び付ける重要な記録である.磐之媛の宮を伝える先行記事と併せ,この地域名の古い背景を具体化する.さらに1234年付寄進状と1706年付口上書の刊行翻刻には「綴木郡」が現れる.古代の地域呼称と前近代文書の表記を合わせて捉えることで,綴木という名称の歴史的背景を具体的に示せる.

第二に,ツツキ系名称の武士による使用と,「綴木」氏称の武家での使用は,史料に記録されている.平太経家,都筑平太,綴喜党・綴党の各記事に加え,『新編佐竹七家系図』の「千三郎 綴木氏を称」が,その中心的根拠となる.丹羽辞典の関連姓氏分類も,綴木と綴喜を関係付ける記録として評価できる.

第三に,門司綴木家には,江戸期からの綴木姓使用を支持する,戸籍と墓碑の具体的な対応がある.天保2年生まれの熊蔵の父は,除籍に「亡 綴木 興七」と記され,墓碑にも「綴木 興七」と刻まれている.興七―熊蔵の父子関係と氏名の一致は,江戸期からの家名の継承を考える積極的な根拠である.これを家伝・墓碑群・近代の経済活動及び公共活動の記録と併せることで,門司綴木家の家歴が具体化する.興七と熊蔵を記す除籍,綴木姓人物の会社役員・家主・市会議員としての記載,庄屋の存在に由来する庄司町の地名説明,1917年の私設綴木公園開設・桜1,500本と仲見世の整備,1932年地図の「綴木遊園地」は,それぞれ家族史・地域史を構成する成果である.

第四に,綴木家の武家由来を論じる歴史的根拠は,地名史,武士の名称使用,武家系図の氏称記事に明確に求められる.本稿はこれらを,門司の家伝・家族記録及び墓碑写真資料と併せて示した.墓碑群の年紀・仏教名・形態・家紋と補修履歴は,武家由来を検討する家の門司での歴史を具体化する一次資料として位置付けられる.特定人物間の系譜接続は今後の個別調査に委ねるが,既に確認されている武家での名称使用は,綴木家の由来を考えるうえで重視すべき積極的な史実である.

補論A 白味噌雑煮と「亀甲に吉」――綴木家の家習・家紋

著者の実見と家族の伝承によれば,著者が知る綴木家の世帯では,白味噌仕立ての雑煮を用いている.現在の餅は六角形に成形していない.家紋は「亀甲に吉」と伝えられ,本版に掲載した家墓の正面と接写(図15・図16)から,その意匠を確認できる.庄司町墓地の他の複数墓石にも対応する意匠があるという従前の著者観察は,個体別の照合資料として保持する.白味噌雑煮と「亀甲に吉」は,綴木家の文化的な継承を記録する具体的な家習・家紋である.

京都文化との比較では,長田弘「白味噌のお雑煮」と1955年の「京風白味噌雑煮」が,白味噌仕立てや丸餅・六角形の餅を考える文献となる.鏡背・宗教施設・能装束等の亀甲系意匠についても,従前稿が取り上げた『和鏡』『郷土の文化財 第15巻』『能装束 下巻』を比較資料とする.これらの文献内容は従前の照合記録に基づく.[27][28][29][30][31]

家習・家紋は,名称史・家系史とともに保存すべき文化資料である.京都との比較は,採用時期や伝承経路を調べる手掛かりとして扱い,特定地域からの移住や血統を確定する根拠とは区別する.

補論B 横浜市都筑区――歴史的地名の継承

横浜市都筑区の名称は,ツツキ系地名が現代にも継承されている事例である.『横浜市行政区再編成の記録』に収録された1993年10月26日付選定報告書は,旧都筑郡に関わる歴史的地名を将来へ継承することを,選定理由の第一に挙げる.[71]

B.1 選定の経過

1993年5月,港北・緑両区の区民2,000人を対象として望ましい区名基準等のアンケートが実施された.6月25日に選定方針が定められ,8月1―31日には横浜市内在住・在勤・在学者による区名の自由公募が行われた.公募後,D区の候補は9案,次いで港京・都筑・光の3案に絞られ,10月26日の選定委員会内投票で都筑が最多得票となった.

同日付の報告書提出後,市会による12月10日の条例改正案可決,12月15日の公布を経て区名が確定し,1994年11月6日に都筑区が発足した.自由公募,委員会選定,条例による決定は,順に行われた別の手続である.[65][71]

B.2 歴史的名称に託された意味

報告書は,歴史的地名の継承に続き,奈良時代からの地名にちなんだ都市づくりへの願いと,応募数上位で市民から広く支持されたとの評価を挙げる.「都を筑(きず)く」は,同時点の委員会が地名の文字に都市づくりへの願いを重ねた表現である.旧名の継承と現代的な意味付けが,同じ選定過程に併存している.

区名選定以前にも,港北ニュータウン歴史民俗調査,『都筑の民俗』の刊行,1984年の都筑センター開設があり,地域史の調査と名称使用が続いていた.これらはツツキ系名称の歴史的な定着を考える資料となる.[72][73]

この事例は,歴史的地名が現代の地域名称として継承されたことを示す.古代地名の語源や家系の移動は,それぞれの時代の史料に即して検討する.

付録 主要史料と記載内容

本稿で用いた主要史料について,記録された内容,対象時期,利用した刊本・提供画像をまとめる.地名史,武家名,門司の家族史をそれぞれの具体的な記載から読み取り,相互の関連を検討するための一覧である.

付表A 京都南部のツツキと「綴木」の地名表記

付表A 京都南部のツツキと「綴木」の地名表記
史料年代・対象記載内容利用媒体・位置付け
『古事記』[1][59]712年成立.開化・仁徳代等を扱う伝承記事.「夜麻志呂能 都都紀能美夜邇」「筒木韓人」.別に「大筒木垂根王」「山代之大筒木眞若王」.1898年『国史大系』78―80,130―131頁.京都南部のツツキを地名・宮号・人物に関わる名称として伝える.
『日本書紀』[2]720年成立.仁徳紀及び継体5年(511)冬10月・12年(518)春3月の遷都記事.「筒城岡南」「筒城宮」「山背筒城」.磐之媛の宮の先行記事と,樟葉―筒城―弟国の移動.1897年『国史大系』201―202,288頁の既存引用と,両遷都記事を訓読・検討する『福井県史』[89].記事の紀年と作品成立年を区別し,ツツキ地域を6世紀初頭の王宮の歴史に結び付ける資料として重視.
『万葉集』巻20[35]天平勝宝7年(755)2月の防人歌左注.武蔵国の「都筑郡上丁…」.西本願寺本の1933年複製,40コマ.山城のツツキとあわせ,武蔵にも同系の郡名があったことを示す.
『続日本紀』巻26[36]797年成立.天平神護元年(765)8月の記事.「綴喜郡松井村」.1897年『国史大系』448頁/230コマ.山背国の行政地名としての綴喜郡を伝える.
『続日本後紀』[34]869年成立.承和5年(838)2月22日条.「武藏國都築郡…」.1897年『国史大系』243頁/129コマ.武蔵国の郡名に「都築」を用いる.
『倭名類聚鈔』巻6[3][70]10世紀前半成立.山城国「綴喜郡〈豆々木〉」と郷名「綴喜」.武蔵国には「都筑郡」.1869年宝文堂刊,17・25コマ.地名表記とツツキの読みの対応を確認する資料.
『延喜式』巻9[4][69]927年完成.山城国「綴喜郡十四座」.武蔵国「都筑郡一座」.1929年校訂刊本,258・314頁/164・192コマ.神社を郡別に配列した記録.
「僧圓定田地寄進状」[50][60][61]天福2年(1234)9月22日付.「在山城國綴木郡大住郷香嶋里拾參坪内」.『大日本古文書』849号,119―120頁の学術翻刻.『鎌倉遺文』7巻4690号,145頁に対応し,同書を出典とする公開採録にも「綴木郡」がある.同一文書一通の刊本・採録上の対応である.
市辺自治会文書「乍恐口上書」[51]宝永3年(1706)8月付.「山城綴木郡」.「木」の脇に小字「(喜)」.提供された刊行翻刻画像(図1).掲載刊本・頁と小字注記の凡例は未確認であるが,提供画像に記された地名表記は判読できる.
松岡静雄『日本古語大辭典』[5]1929年刊.「ツツキ(綴喜、筒木、筒城)〔地〕」.宮号の説明には「山城國綴木郡普賢寺村字多々羅」.語誌篇864頁/447コマ.京都南部の歴史地理を説明する学術辞典における「綴木」用例.
菊池山哉『蝦夷と天ノ朝の研究』[6]1966年刊.本文「山代綴木の荏名ツ姫」,系図「山城ノ綴木ノ荏名津姫」.200―201頁/277コマ(図2).同一見開きの本文と系図に「綴木」を反復して用いる.
丹羽基二『難姓・難地名事典』[56]1994年刊.京都府綴喜郡を所在地とする「綴喜」項の③欄に「綴木」を列挙.凡例は③を「おもな関連姓氏」と定義する.164頁と凡例の提供画像(図3・4).綴喜と綴木の関連を明示した姓氏・地名研究上の記録.

付表B 武家名・氏称と徳島の綴木家伝承

付表B 武家名・氏称と徳島の綴木家伝承
史料年代・対象記載内容利用媒体・位置付け
『古今著聞集』[7][33]1254年成立.頼朝・梶原景時の活動期の説話.書陵部本「つつきの平太経家」.1926年刊本「綴喜平太經家」.武蔵国住人・平家郎等として登場し,捕縛,景時預かり,赦免後の厩別当を伝える.書陵部500・21(目録では江戸初期写),画像264―266.1926年刊565―567頁.仮名形・漢字形をそれぞれの利用媒体に即して示す.
『吾妻鏡』[8][9]1185年10月24日条・1190年11月7日条.「都筑平太」を頼朝の随兵列・行列に記載.1190年の記事では廿一番.1930年刊第1,216―218頁,第3,54―57頁.武家社会におけるツツキ系冠称の具体例.
『平家物語』[10]1184年の一ノ谷の合戦を扱う場面.「坂落」の党名列挙に「綴喜黨」.1935年刊『中編』244頁/125コマ.軍記における武士集団名の記載.
『源平盛衰記』巻21[11]1180年の小坪合戦を扱う場面.「綴黨」の大将として太郎・五郎の兄弟二人を記し,別に綴太郎が畠山の郎等を名乗る.寛永年間刊,17―18コマ.武蔵国住人という地域,主従,戦闘に関する軍記の記載.
『昭島市史』[77]1978年刊.綴党・綴喜党・経家説話を武蔵七党の文脈で整理する.446―448頁の公開本文.先行する古典と近現代の地域史研究を対応させるための資料.
『新編佐竹七家系図』[52][79]1993年刊.千三郎の記事は享和2年(1802)―文化8年(1811)を対象とする.「千三郎 綴木氏を称」.享和2年7月2日生,文化3年9月25日袴着,文化8年8月16日没・十歳.母欄は戸村氏・義敬五女.提供系図画像(図5).佐竹家関係の系図に「綴木」の氏称が記録される具体例.該当頁・親見出し・底本は未確認.
『相生町誌』[53][83]1973年刊.葛木姓世帯の備考に「先祖は赤松高瀬綴木家より分れて来たが、詳細不明」と記載.部落史編・世帯表の提供画像(図6).464頁は提供情報.分出先「葛木」と分出元「綴木」を読み分ける.
美波町の条例・沿革と那賀町の住所案内[54][81][82]赤松高瀬と旧相生町域の地理的対応.条例に「美波町赤松字高瀬213番地」.町誌刊行時の赤松は旧日和佐町域,採録地の旧相生町域は現在の那賀町域に当たる.自治体の公開本文及び郵便番号の旧新住所対応.町誌の分出伝承に現れる赤松高瀬を,実在する地名として位置付ける.
佐藤春夫『武士の勃興』[13]1959年刊.武蔵の武士団の形成・地域的展開.西党を日奉氏の裔とし,平山・由井・田村などに分かれ,「橘樹・都筑の両郡に及んだ」と記す.提供画像36―37頁,該当箇所は37頁(図10).「都筑」は郡名.日奉氏系武士団と都筑地域との関係を示す文献.
『八王子物語―古代より現代まで』上・改訂版[86]保元・平治両乱とその後の武蔵の動向.日奉氏系の平山季重が源義朝に応じて京都へ出馬し,敗戦後は当地で潜伏したと記す.源氏関係の公卿・僧侶等の亡命と地域での受け入れも説明する.提供画像114―115頁(図11).既に在地の武士の参戦・潜伏と,敗戦後の亡命者流入を対応させる地域史叙述.

付表C 門司の家族・地域活動を伝える史料

付表C 門司の家族・地域活動を伝える史料
史料年代・対象記載内容利用媒体・位置付け
綴木家所蔵の除籍謄本[41]熊蔵:天保2年12月29日生,明治42年7月9日没.熊蔵の父欄は「亡 綴木 興七」,続柄は「長男」.興七―熊蔵の父子関係と,図34・35の墓碑銘との氏名一致を確認.熊蔵と戸主との続柄は「祖父」.増之助は明治26年4月8日生,父は亡安吉,同人長男.人物欄・認証欄(図7・8).2019年4月1日交付,北九州市門司区長認証.再提供画像で父興七の氏名を照合.墓碑と併せ,江戸期からの綴木姓使用を支持する資料.
庄司町墓地の綴木家関係墓碑[42]写真で明和・安永・文政元年を確認.従前の著者観察は明和5年(1768)から文久元年(1861)の年紀を報告.「釈(釋)」を冠する銘,共通する個人墓碑の形式,左右・背後に続く配置,家墓と「亀甲に吉」.興七墓の「綴木 興七」銘は戸籍の熊蔵の父欄と対応.明治銘の一例は熊蔵墓の候補.現物の一次資料と写真資料21点(原写真20点・台形補正画像1点,図15―35).2007年の再研磨・黒色補修は著者の説明.四面全文・建立及び追刻時期・過去帳との対応を継続調査.
『角川日本地名大辞典』40・福岡県「庄司町」項[17]1988年刊.当地の庄屋と庄司・庄司町の地名由来.旧楠原村に当たる当地に庄屋がいたことにより,集落一帯を庄司と通称したと記す.提供本文画像(図13).地域に庄屋が存在したという点で綴木家の庄屋伝承と符合し,家伝の地域的背景を補強する.
同書「緑町」項[17]1988年刊.大正6年(1917)の開設・整備を説明.私設綴木公園を開設,桜の苗木1,500本を植栽,同年末に仲見世を整備.その後の民家漸増も記す.提供本文画像(図14).綴木の名を冠する私設公園の開設年・規模・整備内容を伝える.1932年の市刊地図(図9)と地域・名称が対応する.
『帝国銀行会社要録:附・職員録』[43]1913年刊.門司潮湯株式会社の取締役に綴木六郎.会社設立年月は大正元年9月.福岡県会社「も」部35頁/761コマ.門司の会社役員として活動する綴木姓人物の同時代記録.
『教会便覧』[44]1915年刊.荒瀬鶴喜の住所欄「門司市楠町六丁目綴木内」.159頁/84コマ.門司の住居表示に綴木の家名が用いられた例.
『帝国商工録』[45]1931年刊.「和洋料理カフェー・貸席待合」欄に綴木マツ子,住所は日出町一丁目.福岡県167頁/91コマ.同時代の営業関係名簿への記載.
『門司市勢要覧』所収地図[18]1932年11月15日発行.地図に「綴木遊園地」の名称.奥付76コマ,地図81コマ(図9).綴木の名が地域の施設名として記録されたことを示す.
『日本紳士録』41版[19]1937年刊.綴木重平は家主.重平・政夫の掲載町丁目は一致し,所得税欄はそれぞれ72円・53円.福岡県233頁/896コマ,巻頭凡例1―2頁.職業・所在地・税額を伴う人物記録.
『門司市史』[20]1929年4月1日の市制記念表彰を1933年刊の市史に収録.感謝状一覧の「前項以外の市会議員」に綴木米市.839―840頁/453―454コマ.市会議員としての記載と市の記念表彰を確認する資料.
『武道寳鑒』[21][22][85]1930年刊.「綴木米市・講四段」という確認記録.『昭和天覧試合』附録と対応する刊行物.本稿では既存の確認記録を引き継ぎ,氏名欄の画像・頁及び略号凡例の再照合は未了.
『警察年鑑』昭和5年版[26]1928年12月末現在の各種団体・思想関係欄.「大日本國柱軍門司本部,綴木組」を列記.福岡県352頁/190コマ.同時代の編纂刊行物における団体名称の記録.

追加図版 日奉氏系西党と平治の乱を扱う文献

図10 佐藤春夫『武士の勃興』(1959年)36―37頁の提供画像.37頁に日奉氏系西党,平山・由井・田村諸氏,橘樹・都筑両郡への展開を記す.

図10 佐藤春夫『武士の勃興』(1959年)36―37頁の提供画像.37頁に日奉氏系西党,平山・由井・田村諸氏,橘樹・都筑両郡への展開を記す.

図11 『八王子物語―古代より現代まで』上・改訂版114―115頁の提供画像.日奉氏系の平山氏,平山季重の保元・平治両乱への参戦,敗戦後の潜伏と源氏関係者の亡命を説明する.

図11 『八王子物語―古代より現代まで』上・改訂版114―115頁の提供画像.日奉氏系の平山氏,平山季重の保元・平治両乱への参戦,敗戦後の潜伏と源氏関係者の亡命を説明する.

追加図版 庄司町の地名由来と私設綴木公園

図12 『角川日本地名大辞典』40・福岡県の表紙.巻番号と書名を確認する提供写真.

図12 『角川日本地名大辞典』40・福岡県の表紙.巻番号と書名を確認する提供写真.

図13 同書「庄司町〈門司区〉」項.庄屋の存在によって集落一帯を庄司と通称したという地名由来を記す.

図13 同書「庄司町〈門司区〉」項.庄屋の存在によって集落一帯を庄司と通称したという地名由来を記す.

図14 同書「緑町〈門司区〉」項.大正6年の私設綴木公園開設,桜の苗木1,500本の植栽,同年末の仲見世整備を記す.本数の「1,」と「500」は原文の改行をまたぐ.

図14 同書「緑町〈門司区〉」項.大正6年の私設綴木公園開設,桜の苗木1,500本の植栽,同年末の仲見世整備を記す.本数の「1,」と「500」は原文の改行をまたぐ.

追加調査の手掛かり

今後は,1234年寄進状の原文書と各翻刻,1706年口上書の掲載書誌,佐竹系図の全頁・先行版・底本,町誌の調査記録を照合する.門司では,前後戸籍,墓碑と過去帳,村方・庄屋記録,宗門人別帳・藩関係名簿,土地台帳,市会記録を用いて世代関係と活動歴を詳しくする.これらは調査対象であり,該当記載の確認を既に終えた資料には含めていない.[46][47][48][49][62][63][79][80][84]

このほか,斉藤直芳『弓馬と名将』,白井喬二の歴史小説『源平盛衰記』,石野瑛『皇国史と武相郷土』の原版面,『官報』1922年9月28日号の個人欄,『日本之精華』の米一・尺八記事,『全逓労働運動前史』の米市関係記事,丹羽の先行辞典,『緑区史』所収史料は,具体的な本文・頁又は照合範囲を確定するための候補として保持する.[14][15][16][23][24][25][64][78]

参考文献・利用史料目録

主な確認媒体と記載内容は付表A―Cに示す.提供画像を収録していない資料については,記録された照合範囲に基づく.「照合候補」は本文・該当箇所等を追加調査するための資料を指す.刊本の頁とデジタル画像のコマ番号を区別して表示する.

[1]経済雑誌社編『国史大系 第7巻』経済雑誌社,1898年.『古事記』上巻25頁,神武段69頁,開化段78―80頁,垂仁段86頁,仁徳段130―131頁,『先代旧事本紀』巻3・巻10,208―212,402―403頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 991097,26,48,53―54,57,79,118―120,215コマ. https://dl.ndl.go.jp/pid/991097

[2]経済雑誌社編,黒板勝美校訂『国史大系 第1巻 日本書紀』経済雑誌社,1897年.神代上28頁,神武紀88―90頁,仁徳紀201―202頁,継体紀288頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 991091,19,52―53,108―109,152コマ. https://dl.ndl.go.jp/pid/991091

[3]源順著『倭名類聚鈔』2,宝文堂,1869年.巻6山城国条・武蔵国条.国立国会図書館デジタルコレクション PID 863683,17,25コマ. https://dl.ndl.go.jp/pid/863683

[4]皇典講究所・全国神職会校訂『延喜式:校訂』上巻,大岡山書店,1929年.巻9神祇9・神名式上,258,314頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1442211,164,192コマ. https://dl.ndl.go.jp/pid/1442211

[5]松岡静雄著『日本古語大辭典』語誌篇,刀江書院,1929年4月18日,1404頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1145583,標題紙2コマ,864頁=447コマ,1299頁=664コマ,奥付717コマ. https://dl.ndl.go.jp/pid/1145583

[6]菊池山哉『蝦夷と天ノ朝の研究』東京史談会,1966年,後篇第7章第4節197―201頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 9545448,275―277コマ.

[7]山崎麓校註『日本文学大系 校註 第10巻 宇治拾遺物語・古今著聞集』国民図書,1926年,565―567頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1018049,311―312コマ. https://dl.ndl.go.jp/pid/1018049/1/311

[8]正宗敦夫編『吾妻鏡 第1』日本古典全集刊行会,1930年,216―218頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1111511,122―123コマ. https://dl.ndl.go.jp/pid/1111511/1/123

[9]正宗敦夫編『吾妻鏡 第3』日本古典全集刊行会,1930年,54―57頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1109681,30―31コマ. https://dl.ndl.go.jp/pid/1109681/1/31

[10]三教書院編輯部編『平家物語 中編』三教書院,1935年6月30日,244頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1077697,125コマ. https://dl.ndl.go.jp/pid/1077697/1/125

[11]『源平盛衰記』巻21―22,出版者不明,寛永年間.国立国会図書館デジタルコレクション PID 2544838,「小坪合戦事」17―18コマ(16コマも周辺照合). 大将・兄弟の句は17コマ右頁,14丁裏. https://dl.ndl.go.jp/pid/2544838/1/17

[12]『源平盛衰記』巻37―38,藤本久兵衛,寛永年間.国立国会図書館デジタルコレクション PID 2544862,「平家開城戸口並源平侍合戦事」11コマ. https://dl.ndl.go.jp/pid/2544862/1/11

[13]佐藤春夫『武士の勃興』(現代人の日本史 第6),河出書房新社,1959年,全342頁,36―37頁.提供画像の37頁に,西党を日奉氏の裔とし,平山・由井・田村諸氏と橘樹・都筑両郡への展開を説明する本文を確認(図10).国立国会図書館デジタルコレクション PID 2972830.https://dl.ndl.go.jp/pid/2972830

[14]斉藤直芳『弓馬と名将』(名将シリーズ2),雄山閣出版,1966年6月,272頁,図版,19cm.国立国会図書館デジタルコレクション PID 2511504.「武士と馬術」151―154頁を含む経家関係の本文・頁は照合候補.

[15]石野瑛『皇国史と武相郷土』(神奈川県郷土愛叢書1),神奈川県図書,1941年,155頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1042094,98―99頁相当=57コマ.利用記録はNDL OCR転記による.人名・原字について原版面の照合候補. https://dl.ndl.go.jp/pid/1042094

[16]白井喬二『源平盛衰記』下巻,宝文館,1930年.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1171946.近代歴史小説.「綴喜の兵」の本文・頁は照合候補.

[17]「角川日本地名大辞典」編纂委員会編纂『角川日本地名大辞典』40・福岡県,角川書店,1988年.「庄司町〈門司区〉」「緑町〈門司区〉」項.提供された表紙及び本文写真を確認(図12―14).庄司町は庄屋の存在に由来する通称,緑町は大正6年の私設綴木公園開設,桜の苗木1,500本の植栽,同年末の仲見世整備を記す.該当頁番号は提供画像の範囲外.国立国会図書館書誌.

[18]門司市編『門司市勢要覧』昭和7年度刊行,門司市,1932年11月15日発行(76コマ奥付).所収地図「綴木遊園地」部分,国立国会図書館デジタルコレクション PID 1448992,81コマ. https://dl.ndl.go.jp/pid/1448992/1/81

[19]交詢社編『日本紳士録』41版(昭和12年),交詢社,1937年,巻頭凡例1―2頁(4―5コマ),福岡県233頁(896コマ左頁).PID 2127113. https://dl.ndl.go.jp/pid/2127113/1/896

[20]門司市編『門司市史』門司市,1933年,第13章「人物」,839―840頁(市制30年記念の市表彰者一覧).PID 1050964,453―454コマ. https://dl.ndl.go.jp/pid/1050964/1/454

[21]大日本雄辯會講談社編『武道寳鑒』大日本雄辯會講談社,1930年,462頁(総頁数).国立国会図書館書誌ID 000009225515.『昭和天覧試合』附録に当たる.「綴木米市・講四段」という既存照合記録を利用.該当頁・略号凡例は照合候補. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009225515

[22]大日本雄辯會講談社編『昭和天覧試合』附録「武道宝鑑」,大日本雄辯會講談社,1930年,PID 1212020.NDL書誌の注記は「付(462p 23cm):武道宝鑒」.[21]と同じ附録の書誌記録. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I1212020

[23]内閣印刷局『官報』第3049号,1922年9月28日,本紙及び号外.PID 2955167.綴木米市の氏名欄・頁・栄典区分は照合候補. https://dl.ndl.go.jp/pid/2955167

[24]北川由之助編『日本之精華』毎日通信社,1914年.国立国会図書館書誌ID 000000592919.米一及び尺八に関する本文は照合候補. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000592919

[25]全逓信労働組合編『全逓労働運動前史』上巻,全逓信労働組合,1965年.国立国会図書館書誌ID 000001077044(上・下・別巻の総合書誌).米市・門司局争議について既存の確認記録を利用.該当頁・原文は照合候補. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001077044

[26]警眼社編『警察年鑑』昭和5年版,警眼社,1930年,福岡県352頁,「高等ニ關する事項(昭和三年十二月末日現在)」の各種団体・思想関係欄.PID 1442599,190コマ右頁.「大日本國柱軍門司本部,綴木組」の列記を参照. https://dl.ndl.go.jp/pid/1442599/1/190

[27]長田弘「白味噌のお雑煮」『國際文化』201号,國際文化振興會,1971年3月.文献比較資料.該当頁・図版は照合候補.

[28]「京風白味噌雑煮」『茶道月報』510号,茶道月報社,1955年1月.文献比較資料.該当頁・図版は照合候補.記事執筆者は未確認.

[29]佐藤虎雄『和鏡』(日本の美と教養6),一条書房,1944年.文献比較資料.該当頁・図版は照合候補.

[30]『郷土の文化財 第15巻』宝文館出版,1965年.文献比較資料.該当頁・図版は照合候補.編著者は未確認.

[31]『能装束 下巻』東京中日新聞出版局,1963年.文献比較資料.該当頁・図版は照合候補.編著者は未確認.

[32]塙保己一編『群書類従 第拾七輯』経済雑誌社,1894年.『新撰姓氏録』未定雑姓序・山城国条,212―215頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1879818,111―112コマ.

[33]橘成季『古今著聞集』20巻10冊,宮内庁書陵部蔵,500・21,御所本.書陵部目録の書写年代は「写 江戸初期」.巻10馬芸・第14・第364話,国文学研究資料館『国書データベース』書誌ID 100190287,画像264―266. https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Detail/1000041300000 ,https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100190287 ,https://kokusho.nijl.ac.jp/page/list-syoryoubu.html

[34]経済雑誌社編『国史大系 第3巻』経済雑誌社,1897年.『続日本後紀』承和5年2月22日条,243頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 991093,129コマ. https://dl.ndl.go.jp/pid/991093

[35]佐佐木信綱・武田祐吉編『万葉集:西本願寺本 巻20』竹柏会,1933年.天平勝宝7年2月の防人歌題詞・左注.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1242481,16,40コマ. https://dl.ndl.go.jp/pid/1242481

[36]経済雑誌社編『国史大系 第2巻 続日本紀』経済雑誌社,1897年.巻26天平神護元年8月条,448頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 991092,230コマ. https://dl.ndl.go.jp/pid/991092

[37]浄土真宗本願寺派「よくあるご質問―法名とは」浄土真宗本願寺派公式ウェブサイト(2026年9月4日閲覧). https://www.hongwanji.or.jp/faq/list.html

[38]浄土真宗本願寺派「法名の授与に関する寺達」平成24年寺達第13号,2012年2月10日(2026年9月4日閲覧). https://www.hongwanji.or.jp/info/reiki_int/reiki_honbun/x034RG00000432.html

[39]時津裕子「近世墓にみる階層性―筑前秋月城下の事例から―」『日本考古学』7巻9号,2000年,97―122頁,doi:10.11215/nihonkokogaku1994.7.97.本版では118―120頁の加峯家・興膳家及び階層性の議論を参照.J-STAGE掲載論文(2026年9月17日確認).

[40]森謙二「墓と祖先祭祀についての法社会史的研究―家族・村落構造の関わりで」科学研究費助成事業研究成果概要,課題番号06620010,1994―1995年度.

[41]北九州市門司区長認証『除籍謄本』2019年4月1日交付,2葉,綴木家所蔵.人物欄・認証欄の提供画像を利用(図7・8).2026年9月25日に再提供された「図2_1(1).png」を掲載済み人物欄と照合し,熊蔵の父欄「亡 綴木 興七」及び「長男」を採録した.公開図版は従来の図7・8を使用する.

[42]庄司町墓地綴木家関係墓碑,及び綴木馴による現地写真・観察記録・補修履歴の説明.2026年9月17日収録の原写真19点(図15―33)に,同年9月25日提供の興七墓の原写真「興七(1).jpeg」(図34)と,著者が台形補正した「興七3(2).jpg」(図35)を追加.計21点は原写真20点・補正画像1点の内訳であり,図35は図34に対応する判読補助画像である.現物の銘文・形態・家紋・配置を記録し,「明和」「安永」「文政元年」及び「綴木 興七」の銘を確認.従前観察の明和5年~文久元年,2007年の祖母フサヱ死去に際する再研磨・文字の黒色の入れ直しは,著者の説明として採録.撮影日,収録日及び刻字時期を区別し,興七墓の建立・刻字時期は現段階では未確認として記録する.写真一覧.

[43]帝国興信所編『帝国銀行会社要録:附・職員録』大正2年(2版),帝国興信所,1913年,福岡県会社「も」部35頁(門司潮湯株式会社).PID 974390,761コマ左頁.取締役綴木六郎の欄. https://dl.ndl.go.jp/pid/974390/1/761

[44]日本基督教会同盟編『教会便覧』1巻,警醒社書店,1915年,159頁,「日本浸禮教會教役者一覽」荒瀬鶴喜欄.PID 907978,84コマ左頁.住所「門司市楠町六丁目綴木内」. https://dl.ndl.go.jp/pid/907978/1/84

[45]帝国商工会編『帝国商工録』昭和6年版九州版,帝国商工会,1931年,福岡県167頁,「和洋料理カフェー・貸席待合」欄.PID 1031405,91コマ左頁.綴木マツ子の欄. https://dl.ndl.go.jp/pid/1031405/1/91

[46]東京大学史料編纂所編『大日本近世史料 小倉藩人畜改帳二』東京大学出版会,1957年,125―131頁,国立国会図書館デジタルコレクション,PID 3450986.村方・家族記録の照合候補.

[47]北九州市立中央図書館「小倉藩の分限帳を探しています.それに類似する資料はありますか」国立国会図書館レファレンス協同データベース,登録番号1000116270(2026年9月4日閲覧).藩関係名簿の資料案内. https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000116270

[48]熊本大学附属図書館「永青文庫細川家資料 系譜・先祖附・養子縁組・格式―223侍帳」(2026年9月4日閲覧).侍帳の資料案内. https://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/local/eisei/right22.html

[49]北九州市立中央図書館「江戸時代の門司村(現在の門司区)の『人別帳』または『宗門人別帳』は所蔵していますか」国立国会図書館レファレンス協同データベース,登録番号1000384770(2026年9月4日閲覧).人別帳・宗門人別帳の所在に関する資料案内. https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000384770

[50]「僧圓定田地寄進状」天福2年9月22日.東京大学史料編纂所編『大日本古文書 家わけ第十八 東大寺文書之九(東大寺図書館架蔵文書之四)』849号,119―120頁;竹内理三編『鎌倉遺文 古文書編 第7巻』東京堂出版,1974年,4690号,145頁.百巻文書第91巻.利用媒体は『大日本古文書』の公開翻刻版面.『鎌倉遺文』の収録番号は[60],所在句の公開採録は[61]による.原文書と両刊本の全文対校は照合候補. https://dip-s.lab.hi.u-tokyo.ac.jp/item/850_8500_05_1810-0119 ,https://dip-s.lab.hi.u-tokyo.ac.jp/item/850_8500_05_1810-0120

[51]市辺自治会文書「乍恐口上書」宝永3年8月.提供刊行翻刻画像の編集見出しは,市辺村百姓14名による訴願とする.「山城綴木郡」の木の右に小字「(喜)」.図1の提供画像を利用.掲載刊本・頁・注記凡例は照合候補([63]参照).関連文書群の所在案内:城陽市歴史民俗資料館「JOYOエコミュージアム・令和5年度秋季特別展『城陽の絵図と地図-描かれた近世の村-』」(2026年9月5日確認). https://www.city.joyo.kyoto.jp/0000009238.html

[52]渡邉喜一編,山中良二郎監修『新編佐竹七家系図』加賀谷書店,1993年2月,全325頁.副題相当の注記:壱岐家・式部家・左近義方家・北家・東家・南家・西家.図5の提供画像は「千三郎 綴木氏を称」,享和2年7月2日生,文化3年9月25日袴着,文化8年8月16日没・十歳,母欄は戸村氏・義敬五女と記す.該当頁・親見出し・底本は照合候補.国立国会図書館サーチ(茨城県立図書館提供書誌,2026年9月5日確認). https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I08111001001219777

[53]相生町誌編纂委員会編『相生町誌』相生町,1973年,464頁(頁番号は提供情報),部落史編・世帯表.図6の提供画像に「先祖は赤松高瀬綴木家より分れて来たが、詳細不明」.世帯主欄の姓は「葛木」,分出元は「綴木」.編者名・発行者・刊年は[83]の公的書誌による.全頁・編纂時の調査記録は照合候補.

[54]美波町「美波町地域集会所設置及び管理に関する条例」平成18年3月31日条例第86号,第2条・高瀬集会所の位置欄:「美波町赤松字高瀬213番地」.美波町例規集(2026年9月5日公式ウェブ本文確認). https://www.town.minami.lg.jp/reiki_int/reiki_honbun/r258RG00000176.html

[55]「『綴木』という名字(苗字)の読み方・レア度・由来・都道府県別ランキング」ネムディク(2026年9月4日閲覧).電話帳等による二次的推計を含む分布探索の補助資料.集計の基礎資料・推計方法は照合候補. https://myoji.namedic.jp/sei/detail/%E7%B6%B4%E6%9C%A8

[56]丹羽基二『難姓・難地名事典』新人物往来社,1994年,全259頁,ISBN 4-404-02116-X.凡例(提供画像に頁番号なし)及び164頁「綴喜」二項目の提供画像(図3・4)を利用.CiNii(NCID BN11755001)及び国立国会図書館サーチは1994年11月刊,出版社KADOKAWAの案内は1994年10月21日発売と表示する(2026年9月5日確認). https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN11755001 ,https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002372943 ,https://www.kadokawa.co.jp/product/201216010827/

[57]京都市「年表 都市のすがた」延暦13年条(2026年9月5日公開検索表示確認).改称記事の伝存本文の照合先:『日本紀略』延暦13年11月8日条・『日本後紀』巻3逸文. https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/toshi_n_frame.html

[58]京田辺市「田辺町誕生以前の旧村域」2024年3月28日(2026年9月5日確認).旧村域・郡役所の解説を参照. https://www.city.kyotanabe.lg.jp/0000020401.html

[59]國學院大學「古典文化学」事業,宮都データベース「夜麻志呂能都々紀能美夜」及び同凡例(2026年9月5日確認,同月25日再確認).石之日売命の宮,継体5年10月の遷都記事,京田辺市多々羅都谷の比定地及び同志社大学京田辺キャンパス内の顕彰碑を参照.同データベースは両宮の同地性と比定地の確定度を区別する. https://kojiki.kokugakuin.ac.jp/kyuto/yamashironotsutsukinomiya/

[60]西尾知己作成(©2011),遠藤基郎公開「東大寺文書に見える散在田地・畠地・家地など一覧 鎌倉中期(貞応元〔1222〕~寛元3〔1245〕)分」,管理番号946,天福2年9月22日(2026年9月5日確認).百巻91・鎌倉遺文7巻4690号の対応を示す公開一覧. https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/endo/2008-10kaken/sanzaiden_todaijimonjo_5kamakurachuki1.htm

[61]「ムラの戸籍簿」データベース「山城国」,大住郷・天福2年9月22日条(2026年9月5日確認).『鎌倉遺文』7巻145頁を出典とする所在句の公開採録. https://drfh.jp/mura/index.php?title=山城国

[62]遠藤基郎「大日本古文書家わけ第十八 東大寺文書編纂ノート」(2026年9月5日確認).成巻文書の影写本3071.65/64/1~31,写真帳6171.65/34/1~19等の案内.原文書の所在を追うための資料案内. https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/endo/todaijinote.html

[63]城陽市教育委員会『史料が語る城陽近世史 第1集 青谷地域編』1984年3月.尼崎市立歴史博物館の蔵書書誌,資料ID 0000012938,及び京都市図書館の地域資料一覧で書誌確認.1706年口上書の掲載先を調べるための照合候補(2026年9月5日書誌確認). https://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/opac/pm_detail.php?id=0000012938 ,https://www2.kyotocitylib.jp/wysiwyg/file/download/1/121

[64]丹羽基二『姓氏・地名・家紋総合事典』新人物往来社,1988年,ISBN 4-404-01467-8.1994年辞典と比較するための照合候補(2026年9月5日書誌確認). https://www.kadokawa.co.jp/product/201216011923/

[65]横浜市都筑区「都筑区の歴史」2024年5月23日更新.1993年の公募・選定・決定,1994年の区成立に関する公式解説(2026年9月5日確認). https://www.city.yokohama.lg.jp/tsuzuki/shokai/gaiyo/1-03rekisi.html

[66]横浜市都筑区役所『2006年版 都筑区統計要覧』冒頭「区名『都筑区』について」.区名の公式説明資料.選定当時の報告書は[71]に所収(2026年9月5日確認). https://www.city.yokohama.lg.jp/tsuzuki/kusei/tokei/tokeiyoran/toukeidemirutuzuki.files/0025_20200330.pdf

[67]国立公文書館「歴史と物語」年表及び「5.続日本後紀」(2026年9月5日確認).作品成立年と伝本年代の区別に利用. https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishitomonogatari/history01.html ,https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishitomonogatari/contents/05.html

[68]和歌山県立博物館収蔵品データベース「真福寺本古事記」(ID 198)(2026年9月5日確認).1371―1372年の書写年代の解説に利用. https://jmapps.ne.jp/hakubutuwakayama/det.html?data_id=198

[69]愛媛県歴史文化博物館「延喜式神名帳」,文化遺産オンライン(2026年9月5日確認).927年成立と後代刊本の区別に利用. https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/358464

[70]国立国会図書館レファレンス協同データベース「下記5冊について出版年を教えて欲しい.①賦役令②正倉院…」登録番号1000084176,及び「『和名抄』を見たい」登録番号1000068340.『国書総目録』等による承平年間又は承平5年以前という成立年代の整理(2026年9月5日確認). https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000084176&page=ref_view ,https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000068340&page=ref_view

[71]横浜市市民局行政区再編成担当編・発行『横浜市行政区再編成の記録[港北区・緑区・青葉区・都筑区]』1995年3月.港北ニュータウン記念協会公開PDF(2026年9月5日の版面確認記録による).27頁:基準アンケート・公募,28―29頁:応募箱・応募案内,30頁:応募順位表,31―32頁:審議・投票・条例議決と公布,34―35頁:1993年10月26日付区名選定報告書全文,37頁:応募状況,38頁:応募要領,68頁:『広報よこはま・D区準備号』1993年12月号.以上はPDF39―44,46―47,49―50,80頁.奥付はPDF113頁. http://kn-kk.com/kohokuarchives/linkpdf/05065.pdf

[72]横浜市立都筑図書館「郷土資料の基本リスト」2026年4月28日更新,「都筑区の通史・民俗がわかる資料4」『都筑の民俗 横浜市・港北ニュータウン郷土誌』(港北ニュータウン郷土誌編纂委員会,1989年)の案内.横浜市計画局委託による1974年から延べ11年間の歴史民俗調査を説明する(2026年9月5日公式解説確認). https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/tsuzuki/library-material/kyodo/kyodo.html

[73]横浜市都筑区「令和3年度都筑区地区センター及び横浜市つづき緑寿荘指定管理者公募について」2024年12月27日更新,「都筑センター概要」.開設年月日を昭和59年11月7日と記載(2026年9月5日公式施設概要確認). https://www.city.yokohama.lg.jp/tsuzuki/kusei/shiteikanrisha/chikic/chikucenterkoubo3.html

[74]高橋秀樹「『吾妻鏡』について実証的に考える」『軍記と語り物』59,2023年,1―16頁,特に伝本・北条本の検討(1―6頁).doi:10.60342/gunkitokatarimono.59.0_1.北条本の収集・補写を含む成立過程の検討を参照(2026年9月5日確認). https://www.jstage.jst.go.jp/article/gunkitokatarimono/59/0/59_1/_pdf

[75]岡田三津子「成簣堂文庫本『源平盛衰記』訓読索引稿」『大阪工業大学紀要 人文社会篇』50巻1号,55―89頁.公開書誌の刊行年は2006年,論文巻頭の巻号年次表示は2005年.55―56頁の作品成立と現存写本の年代に関する説明を参照(2026年9月5日確認). https://oit.repo.nii.ac.jp/record/500/files/50_1_4.pdf

[76]国立国会図書館レファレンス協同データベース「平家物語の成立時期」に関する回答,登録番号1000113405.原形の成立と諸本の展開を区別するための参照情報(2026年9月5日確認). https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000113405&page=ref_view

[77]昭島市史編さん委員会編『昭島市史』昭島市,1978年10月,第五編「律令国家時代」,第四章第三節「武蔵七党と多摩郡」,一「武蔵七党」,446―448頁.昭島市デジタルアーカイブの公開本文を確認(2026年9月5日確認). https://adeac.jp/akishima-arch/texthtml/d400030/mp400030-400030/ht050520

[78]横浜市立図書館「緑区史 資料編 第1巻」公開目次,2024年7月31日更新.中世第1章40―49,51―54の項目を確認.1195年の都筑平太記事等の本文は照合候補.史料検索の案内として利用(2026年9月5日確認). https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/shiru/kakuku/midoriku/2010992772-c.html

[79]秋田県立図書館「佐竹東家・南家・西家の歴代当主の生没年月日が分かる資料はないか.」国立国会図書館レファレンス協同データベース,管理番号秋田-1774,登録番号1000163299,2014年11月21日作成,2015年2月12日更新.1993年版「はしがき」の紹介及び1973年版付録133―167頁の案内(2026年9月5日公開回答本文確認). https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000163299&page=ref_view

[80]原武男編『新編佐竹氏系図』加賀谷書店,1973年7月,付録「佐竹氏五家略系図」133―167頁.書誌・付録範囲は[79]による.1993年版の先行刊本として,付録本文・千三郎条の照合候補.

[81]美波町「町の概要・アクセス」中の「合併の経過」;日本郵便「徳島県 海部郡日和佐町」郵便番号検索・旧新住所対応(赤松)(2026年9月5日公式ウェブ本文確認).1956年・2006年の町村沿革と日和佐町赤松から美波町赤松への変更を確認. https://www.town.minami.lg.jp/docs/179.html ,https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?city=1363821&cmp=1&pref=36

[82]那賀町「合併に伴う住所変更について」2025年1月30日更新,「旧相生町の変更点」.2005年3月1日の合併と相生町域の那賀町への住所変更を確認(2026年9月5日公式ウェブ本文確認). https://www.town.tokushima-naka.lg.jp/soshiki/1001/sumai/3664.html

[83]徳島市立図書館『阿波晩茶の調べ方』2021年10月16日更新,PDF1頁「自治体史などを用いることで,より詳しい情報を調べてみましょう」の資料一覧.『相生町誌』の編者を相生町誌編纂委員会,発行者を相生町,1973年刊,請求記号T241.4/アイとする(2026年9月5日公的資料案内確認). https://www.city.tokushima.tokushima.jp/toshokan/recommend/passfinder/index.files/awabancha.pdf

[84]地方史班(徳島地方史研究会)名倉佳之・立石恵嗣・須藤茂樹・大柴せつ子・根津寿夫・松下師一・金原祐樹「日和佐町の古文書調査」『郷土研究発表会紀要』43号,徳島県立図書館公開本文,第1節「日和佐町調査の概要」(2026年9月5日公開本文確認).『徳島県史料所在目録7』の1976年3月刊行と,後年の調査時における資料散逸・所蔵者変更を案内.電子化時に原文表記の一部変更がある旨の表示を伴う公開本文.史料所在を探索するための資料案内. https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/43/4327.html

[85]昭和館図書室「昭和天覧試合 附録/武道宝鑑」所蔵目録,資料コード000034544.1930年5月,462頁・図版16枚との書誌記録.2026年9月5日確認. https://search.showakan.go.jp/search/book/detail.php?material_cord=000034544

[86]佐藤孝太郎『八王子物語―古代より現代まで』上,改装・改訂版,武蔵野郷土史刊行会,1979年,114―115頁.利用媒体は提供された本文画像(図11).日奉氏系西党と平山氏の関係,平山季重の保元・平治両乱への参戦と敗戦後の潜伏,源氏関係者の亡命と多摩川両岸での受け入れを説明する.

[87]Tanigawa Akio(谷川章雄), “Excavating Edo’s Cemeteries: Graves as Indicators of Status and Class,” Japanese Journal of Religious Studies, 19(2–3), 1992, pp.271–297.墓標の普及は287頁,1831年の院号・居士号及び墓石の高さに関する規制の紹介は292頁.本稿は研究論文による紹介を参照し,禁令原文と各藩の運用の直接確認とは区別する.南山宗教文化研究所公開PDF(2026年9月17日確認).

[88]藤井正雄「戒名」『新纂浄土宗大辞典』WEB版.「釈」を仏弟子の名に用いる伝統と,戒名・法名・法号の用語を参照.浄土宗公開本文(2026年9月17日確認).

[89]福井県『福井県史』通史編1・原始・古代,第二章「若越地域の形成」,第二節「継体王権の出現」,三「継体天皇の治世」,「相次ぐ『遷都』」.福井県文書館公開本文(2026年9月25日確認).継体5年冬10月の山背筒城への遷都と12年春3月の弟国への遷都の訓読,樟葉―筒城―弟国の宮の移動,多々羅の普賢寺谷付近への比定を参照. 福井県史公開本文.

[90]京田辺市『第3次京田辺市総合計画』2006年3月,総論・第2章「京田辺市の概況」,11頁「筒城宮跡」(PDF18頁).511年から518年までの7年間という宮の時期を参照(2026年9月25日公開PDF確認). 京田辺市公開PDF.

[91]同志社大学『One Purpose』「同志社大学のある町」,「筒城宮址の碑」項(2026年9月25日公開本文確認).京田辺キャンパス内の碑の所在,普賢寺川流域への比定とその根拠,及び宮の正確な位置の確認状況を参照. 同志社大学公式案内.

庄司町墓地の綴木家関係墓碑について,著者撮影・提供の原写真20点と,著者提供の台形補正画像1点を収録する.図15―35は21点の画像に付した番号であり,同じ墓碑の別視点と同一写真に基づく補正画像を含む.図34・35は「綴木 興七」の氏名を確認する資料である.画像を選択すると,それぞれ提供時の解像度で確認できる.

資料の整理・収録日:図15―33は2026年9月17日,図34・35は同年9月25日.これらは資料の収録日であり,撮影日や刻字時期とは区別する.著者によれば,2007年,祖母フサヱの死去に際し,墓石の再研磨と文字の黒色の入れ直しが行われた.銘文の黒さと石材の風化を区別して読む.解釈と写真との対応は第6.3節を参照.

家墓・家紋・型式近世の年紀明治銘・その他の銘墓碑群の配置綴木興七の氏名

図34・35では「綴木 興七」の氏名を採録する.図7の除籍謄本に記された熊蔵の父と姓・名が一致し,江戸期からの綴木姓使用を支持する資料となる.写真と戸籍の対照は第6.3.5節を参照.

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