ツツキ系名称と門司綴木家の史料的研究

古代地名・前近代表記・近代家族記録の検証と系譜接続の限界

綴木 馴 | 第10稿 2026年9月5日

要旨

本稿は,ツツキ系名称と門司綴木家の資料を,地名,字形,人物氏称,世襲姓及び血統的連続に分けて検討する.第一に,記紀と行政地名資料から,古代山代・山背国南部にツツキ地域が存在したことを確認できる.第二に,1234年付寄進状と1706年付口上書の刊行翻刻には「綴木郡」が現れる.1913年の門司の同時代刊行資料にも綴木姓人物が記され,「綴木」を昭和期門司での突発的創出とする説明は採れない.第三に,菊池山哉の「山代綴木」は古代地理と整合し,本文・系図での反復と他表記との使い分けから,著者又は編集段階の意図的再構成である蓋然性が高い.第四に,古代綴木姓の存在は本稿の主張ではなく,古代の原字としての「綴木」も未確認である.第五に,佐竹家関係系図の氏称記事,徳島町誌の分出家伝,門司の除籍・地域刊行資料は重要な知見を与えるが,各地域間の血統的連続は未証明である.丹羽基二による関連姓氏分類も,分類の存在と系譜の実証を区別する.第六に,横浜市都筑区名の主たる選定理由は旧都筑郡名の継承であり,「都を筑く」は1993年の選定委員会による補助的理念である.白味噌雑煮,餅の形状及び家紋は民俗・意匠の比較資料に位置付ける.以上から,名称史上の確認事項と家系史上の未接続範囲を両立させた史料体系を提示する.

キーワード ツツキ系名称,綴木,綴喜郡,門司,史料批判,系譜,都筑区名

1 はじめに

1.1 問題設定

本稿は,古代のツツキ系地名,前近代文書由来の「綴木」表記,後代の人物氏称・家伝,及び門司の家族・地域記録を横断して検証する.名称の一致がどこまで歴史的関係を示し,どの段階で世代ごとの接続資料が必要になるかを明らかにすることが課題である.地名と人名,原史料と後代の辞典,作品成立時の本文と利用刊本,名称の使用と血統の継承を区別する.

既存用例の確認は,特定地域・時期での初見を字形又は姓の成立そのものと同一視する説明を修正する.一方,古代史料の限定された範囲で特定表記を見いだせないことから,古代社会全体における不存在も導けない.本稿は,確認できる名称史と,接続資料を欠く地域間家系史を,それぞれの証拠に即して記述する.

1.2 中心命題

全章を通じた到達点は,古代ツツキ地域の存在,前近代文書由来翻刻の「綴木」用例,菊池の意図的再構成表記の蓋然性,古代綴木姓・古代原字を未確認とする射程,佐竹・徳島・門司資料の価値と相互の未接続,及び都筑区名選定における旧名継承と同時点の補助的理念,の六点である.丹羽辞典の「関連姓氏」分類は,綴木を綴喜に関係する姓氏として認識した辞書学的証拠として,表記史・氏称史と併せて評価する.

1.3 論証を分離する六命題

表1のP1―P6は証拠が何を証明するかを分離する分析上の命題であり,第1.2節及び第10章の六つの到達点とは区別する.P3又はP4を示す記事はP2の用例にもなるが,字形の使用から郡名の同一性又は人物氏称を逆に導くことはできない.人物氏称から世襲姓・家へ,さらに地域間の血統的連続へ進むには,それぞれ継承資料と世代ごとの接続資料を要する.

表1 六つの論証命題,成立要件及び現段階の判断

命題

論証対象

成立に必要な証拠

現段階の判断

P1

ツツキという称呼・地域の存在

対象地域を指す地名,宮号,郡名等の本文用例

確認

P2

「綴木」という字形の使用

字形を判読できる資料画像又は刊行翻刻

確認

P3

綴喜郡の異表記としての使用

同一地域を指す地理的文脈又は注記

確認(1234年学術翻刻・1706年翻刻提供画像の範囲)

P4

人物に付された「綴木氏」称

特定人物に文法的に「綴木氏」を付す記事

確認(佐竹家関係刊行系図の記事)

P5

世襲姓・家の成立

複数世代の続柄,家督,相続,戸籍又は系図の連続

確認(除籍の明示する続柄)/判断不能(成立時点・他地域)

P6

地域間の血統的連続

親族,移住,所領,相続,奉公等を世代ごとに結ぶ資料

判断不能/撤回(従来稿の肯定的結論)

1.4 本稿の範囲と構成

第2章で資料状態と歴史判断の区分を定め,第3章で古代の称呼・地域,第4章で「綴木」字形と郡名異表記,第5章で人物・集団の名称,第6章で徳島・門司の家資料,第7章で近代門司の地域記録を検討する.第8章は地域間接続の検証と,これとは独立した都筑区名選定史を扱う.第9章で成果と限界を総合し,第10章で六点の結論を示す.白味噌雑煮・餅・家紋は補論A,史料別の確認範囲と再検証課題は付表1―9,最終統合の確認範囲は付記に示す.

1.5 小括

本稿は,古代地域・前近代表記・後代氏称・近代家族記録それぞれの積極的知見を確保する.名称の使用と血統の継承に必要な証拠を分けることにより,名称史の成果を過小評価せず,地域間の接続を未証明として扱える.

2 史料と方法

2.1 史料群と再検証範囲

使用資料は,古代・中世の利用刊本・写本画像,前近代年紀文書の刊行翻刻,近現代の辞典・研究書,佐竹家関係刊行系図,『相生町誌』,門司綴木家の除籍謄本部分画像・墓碑観察報告,及び地図・会社録・人名録・市史等である.本稿の本文入力は第9稿に限定した.第1―8稿は転記訂正,撤回済み主張,図表及び調査候補の保持を監査する比較資料とし,そこにのみある未検証の親子線や親族全葉画像を本文へ再導入しない.

第10稿で直接再読した家資料・提供画像は,第9稿内包の図1・2・4―6,丹羽辞典の凡例画像,除籍の人物欄・認証欄及び地図である.公的書誌・公開解説の再確認は,参考文献及び付記に明示する.それ以外の刊本・写本の実見範囲は,第9稿に記録された従前の照合結果を継承する.以下の「確認」はこの区別の下で用い,全原文書を第10稿で新たに実見したことを意味しない.

確認媒体は,原文書,後代写本,刊行翻刻,刊本画像,提供された切抜き画像,公開本文,書誌・目録及び著者観察報告に分ける.原史料への遡及,刊本間の全文対校,切抜きの全頁・奥付との照合,墓碑の現地再調査及び寺院過去帳の照会は,完了した範囲と未了範囲を資料ごとに示す.掲載画像が欠く続柄を,旧稿の文章だけから新たな直接確認へ格上げしない.

比較稿の参考文献欄にのみ現れる宮本洋一『日本姓氏語源辞典』という情報は,対応本文・頁・原文及び書誌の再確認を欠くため採用しない.照合候補の保存と,本稿の結論を支える出典への採用は別の判断である.

参考文献番号は資料目録順の通し番号とし,本文,表及び付表で同一資料に同じ番号を用いる.書誌の総頁数と引用頁,印刷頁とデジタル画像のコマ番号を区別する.文献[71]ではPDFの通し頁は印刷頁に12を加えた数であり,印刷34頁はPDF46頁に当たる.引用本文の旧字体・仮名・句読点は,確認できる媒体の表記を保持し,説明文には原則として新字体と「,.」を用いる.

2.2 成立時点,対象時点及び史料類型

本稿では,記事が設定された年代,史料・作品の成立年代及び現存写本の書写年代及び実際に利用する刊本の年代を分ける.例えば,712年成立の『古事記』を1898年刊本で読む場合,伝承の対象年代,作品成立年,利用刊本年の三つの時点があり,写本を介する場合はその書写年代も独立させる.1929年又は1966年の説明に「綴木」があっても,それは直ちに古代原文の字形ではない.1234年付文書又は1706年付口上書の翻刻についても,年紀を持つ文書の存在,刊本に印刷された字形,原文書の現存形態と筆跡の三点を区別する.個々の字形は地名,人物氏称,姓氏分類及び世襲姓のいずれとして機能するかを別に判定する.

『延喜式』は平安期の法制・格式の編纂物であり,『吾妻鏡』は鎌倉幕府の事績を後代に編年体でまとめた歴史書である.両書を『平家物語』『源平盛衰記』等と一括して「軍記物語」と呼ばない.『古今著聞集』は説話集であり,人物逸話の伝承を考える史料にはなるが,同時代の行政記録と同じ証拠力を与えない.近代の辞典,一般向け歴史書,郷土史書については,典拠となる古典本文が特定できる場合にのみその原文まで遡り,特定できない箇所は近代著者の説明として止める.

表2 史料読解で分離する四つの層

確認対象

本稿の扱い

写本・原字層

現存写本の該当箇所に何とあるか

書写年代,仮名・漢字,個人名・党名を記録.作品成立時の自筆原稿と同一視しない.

刊本・校訂層

後代の刊本が何を印刷するか

刊年,底本,漢字化,句読点,校異を記録.写本からの変化の経路は別に立証する.

近代著者の同定層

研究書・郷土史が何を結び付けるか

典拠を明記し,平家郎等→平氏血縁,綴党→経家一族等の推論を原文から分ける.

現代の検証仮説層

人物・党・移動・系譜を接続できるか

活動時期・地域・所領・親族等を照合する.接続不能は無関係の証明ではない.

2.3 資料状態

資料状態は確認経路と資料の性格を表す.表3の区分に,必要に応じて確認した改訂段階を付記する.「原画像確認」は利用した媒体の画像を読んだ状態であり,その媒体が刊行翻刻である場合に原文書の字形まで保証するものではない.また,家伝の文章を画像で読めることと,家伝の出来事が独立に実証されることは別である.

表3 資料状態の統一区分

資料状態

定義

原画像確認

判定対象となる利用刊本の頁,行政資料,家資料等の画像を確認した.原本・刊本・写しの別を付記する.

刊行翻刻確認

歴史的原文書は未見であるが,刊行された翻刻の該当箇所を確認した.

書誌のみ確認

書名,版,刊年又は所在を確認したが,該当本文には到達していない.

後代著者による解釈・再構成

古代・中世本文の直接引用ではなく,後代著者による説明,系譜化又は再構成である.

家伝

家又は地域に伝わる内容として記録されたもので,出来事自体の史実性とは分ける.

未確認

該当頁,原文又は画像を確認できず,積極的根拠には用いない.

公式ウェブ本文確認

公的機関が公開するウェブページの本文を確認した状態.その解説が参照する過去の刊本・原文書の閲覧とは区別する.

著者観察資料

著者の実見報告に基づく資料.写真・全文・調査日等が未提示なら,第三者による銘文・年代・同定の再検証は未了と明記する.

2.4 歴史判断

歴史判断は,限定した命題が史料からどの程度支持されるかを示す.判定欄では表4の五語だけを用い,「未確認」を歴史判断として流用しない.また,「撤回」は従来稿の主張を維持しないとの研究史上の判定であり,反対命題が証明されたことを意味しない.

表4 歴史判断の統一区分

歴史判断

定義

確認

限定した命題を資料が直接示す.

蓋然的推定

複数の独立資料,又は同一資料内の反復・文脈が整合し,代替解釈より有力だが,直接接続を欠く.

検証仮説

検証手順と必要資料を具体的に示せる探索命題である.

判断不能

資料不足,矛盾又は複数解釈のため,肯定・否定を決められない.

撤回

従来稿の主張又は出典帰属を,再検証後には維持しない.

2.5 翻刻,異表記,人物同定及び負の証拠

引用では,写本の原字・仮名を通行字体に移す翻字,刊本の印刷字形,校訂者又は後代著者の漢字化・正規化を区別する.『古今著聞集』の従前の実見対照は,書陵部本の「つつきの平太経家」と1926年刊本の「綴喜平太經家」である.くずし字の字体を活字で完全に再現したとはせず,翻字方針と画像位置を示す.旧稿が挙げる他刊本の異表記は,版・頁の再特定まで確認済み用例に数えない.OCR転記しかない箇所はその継承元を明記し,誤認字を推測で補わない.

地名,郡名,地名に由来し得る個人冠称,通称,諱,党名,氏族名及び世襲名字を別欄で分類する.人物同定では,通称だけでなく年代・活動地域の整合を最低条件とし,諱,所領,親族,主従関係,役職等による追加照合を求める.三条件が整合しても人物の一意性は保証されない.個人の同定,二つの党名の対応,その党の構成原理及び地域間の系譜接続は,独立した検証問題である.

本文根拠には,書誌と該当箇所を特定できた資料を用い,未実見の情報は調査対象として区別する.佐藤春夫『武士の勃興』への平治の乱追放説の帰属,白井喬二『源平盛衰記』を一ノ谷の「綴喜の兵」の原典とする扱いは撤回する.ただし,当該著作全体にその話題が絶対にないと証明したものではない.確認できた1935年刊『平家物語 中編』の「綴喜黨」は,独立にその版の本文として引用する.斉藤直芳の経家記事も,未確認の原文を人物像の補強に使わない.

名簿又は本文で特定表記を見いだせない場合は,検索対象,版,年代,収録階層及び異表記を限定して記す.不見は不存在の証明ではなく,別の身分・姓・居住地を積極的に証明するものでもない.一方,旧稿の肯定的主張が誤引用,主語の誤接続又は未確認資料に依存していた場合は,その主張を「撤回」と記録する.

2.6 小括

本稿は資料の確認状態と歴史判断を分け,記事対象・史料成立・利用伝本の年代を対応させる.この方法により,前近代表記の証拠,菊池の意図的再構成という推定,氏称・家伝の記録,及び血統接続の未証明を,同一尺度で混同せず扱う.

3 古代のツツキ系称呼・地域――命題P1

本章は,古代のツツキ系語形が何を指すかを,史料の字形と文法単位に即して検討する.ここで「ツツキ系」は,同音又は近接地域に基づく比較上の作業概念であり,同一氏族又は血統を前提としない.

3.1 山代・山背・山城の表記

「山代」「山背」「山城」は,現在の京都府南部に相当する国域に関わる表記である.ただし,「山代→山背→山城」という排他的な三段階を,すべての古代史料へ一律に当てはめることはできない.『古事記』には「山代」及び歌謡の「夜麻志呂」があり,『日本書紀』の筒城関係記事には「山背」がある一方,同書の祖系記事には「山代直」もある.同一又は近接時期に成立した史料間・同一史料内の用字差と,行政上の国名変更は分けて論じる.

公的改称としては,延暦13年(794)11月8日,山背国を山城国へ改めたことを確認できる.京都市の公式歴史年表も,遷都後の同日に「平安京」の命名と国名の改称を位置付ける([57]).『日本紀略』同日条及び『日本後紀』逸文として伝えられる改称記事は,伝存・引用経路の照合対象である.本稿は,改称の年代を確認したことと,794年の詔の原紙又は同時代写本を確認したこととを同一視しない.

記紀のツツキ・筒城関係記事と,『続日本紀』『倭名類聚鈔』『延喜式』の綴喜郡記事を合わせると,古代山代・山背国南部にツツキという地域が存在し,その地理的範囲が後の山城国綴喜郡域,すなわち現在の京都府南部と対応することは確認できる.ここでいう対応は地域単位であり,現在の綴喜郡二町の境界と古代の郡域が同一という意味ではない.京田辺市域にも旧綴喜郡の村域が含まれる([58]).

國學院大學の宮都データベースは「夜麻志呂能都々紀能美夜」を取り上げ,京田辺市多々羅都谷の比定地を示すが,仁徳后の宮と継体の遷都先が同地かどうかは未確定とする([59]).したがって,ツツキ地域の存在を確認することから,特定の宮跡・敷地を発掘史料によって確定したとまでは進めない.地理的整合性は菊池の「山代綴木」の解釈にも関係するが,氏族又は家系の連続を示す独立の証拠ではない.

3.2 『古事記』の都都紀・筒木・大筒木

宮号の整理形「夜麻志呂能都々紀能美夜」([59])と,本稿が利用する1898年刊本の歌中表記「夜麻志呂能 都都紀能美夜邇」は区別する.「々」の有無,分かち及び末尾の格助詞「邇」を無表示で置換せず,前者は現代の見出し形,後者は当該利用版の引用として示す.

利用版は,経済雑誌社編『国史大系 第7巻』経済雑誌社,1898年である.開化天皇段には,個人名として「大筒木垂根王」,后妃記事として「山代之荏名津比賣」,別の王名として「山代之大筒木眞若王」が記される.これらは本文上それぞれ別の文法単位であり,「山代綴木の荏名津姫」という一続きの氏族表現ではない.

其兄比古由牟須美王之子,大筒木垂根王,次讃岐垂根王……日子坐王,娶山代之荏名津比賣,亦名苅幡戸辨…… (刊本78―79頁/国立国会図書館デジタルコレクション53コマ)

又娶其母弟袁祁都比賣命,生子山代之大筒木眞若王…… (刊本79頁末―80頁/同53―54コマ)

仁徳天皇段には,「筒木韓人」が場所により人物を限定する表現として現れ,歌には「夜麻志呂能 都都紀能美夜邇」と音仮名が用いられる.ここで確認できるのは地名又は宮を含む表現であり,名字「綴木」又は氏族「綴木氏」ではない.また,712年成立とされる『古事記』は,記事が置かれた伝承時代の同時代記録ではない.

如此歌而還,暫入坐筒木韓人,名奴理能美之家也……夜麻志呂能 都都紀能美夜邇…… (刊本130―131頁/同79コマ)

3.3 『日本書紀』の筒城岡・筒城宮・山背筒城

利用版は,経済雑誌社編,黒板勝美校訂『国史大系 第1巻 日本書紀』経済雑誌社,1897年である([2]).仁徳紀は磐之媛命の記事に「筒城岡南」「筒城宮」を用い,継体紀は遷都先を「山背筒城」と記す.松岡辞典の「筒木の宮」は,この利用版の『日本書紀』本文とは異なる表記である.

更還山背,興宮室於筒城岡南而居之 (仁徳紀,刊本201頁/国立国会図書館デジタルコレクション108コマ)

爰口持臣至筒城宮……三十五年夏六月,皇后磐之媛命薨於筒城宮 (仁徳紀,刊本202頁/同109コマ)

五年冬十月,遷都山背筒城 (継体紀,刊本288頁/同152コマ)

「筒城岡」は地名,「筒城宮」は宮号又は所在地表現,「山背筒城」は遷都先の地名である.『日本書紀』も720年成立とされる編纂史料であり,仁徳・継体代の記述を同時代記録として扱わない.

3.4 郡名・郷名としての綴喜・都筑・都築

『延喜式』と『倭名類聚鈔』は,古代の行政地名を確認するうえで重要である.前者は法制・格式,後者は類書・地名資料として性格が異なる.いずれも軍記物語ではない.利用版と該当箇所は,本節,参考文献及び付表2に示す.

これらに先立つ用例として,『万葉集』巻20の天平勝宝7年(755)2月の防人歌左注に「都筑郡」が現れる.利用版は佐佐木信綱・武田祐吉編『万葉集:西本願寺本 巻20』竹柏会,1933年である.左注は歌の作者を都筑郡出身の上丁と示すもので,「都筑」を人物の名字又は氏族名として用いていない.西本願寺本の人名部分は「服部於田」と見え,校訂本文の「服部於由」とは分けて扱う.

右一首都筑郡上丁服部於田 右一首妻服部呰女 (『万葉集』巻20,国立国会図書館デジタルコレクション PID 1242481,40コマ)

『続日本紀』巻26の天平神護元年(765)8月条には,和気王事件の処刑地として「山背國相樂郡」と「綴喜郡松井村」が並ぶ.『続日本紀』の完成は797年であり,765年条の記事年代と編纂成立を区別する必要があるが,利用刊本上の「綴喜郡」は明瞭な行政地名である.

到于山背國相樂郡,絞之埋于狛野。又絞益女於綴喜郡松井村。 (『続日本紀』巻26,刊本448頁/国立国会図書館デジタルコレクション PID 991092,230コマ)

『倭名類聚鈔』の利用版は,源順著『倭名類聚鈔』2,宝文堂,1869年である.巻6の山城国条は「綴喜郡」の直下に小字で訓「豆々木」を置き,郷名列に「綴喜」を別に掲げる.この版面配置では「豆々木」は郡名の訓と読むのが安全であり,「綴喜郷〈豆々木〉」と一続きに引用しない.武蔵国条は郡名を「都筑」とする.

綴喜郡〈豆々木〉 山本 多河 大住 有智 田原 中村 志磨 綴喜 甲作 餘戸 (『倭名類聚鈔』巻6,国立国会図書館デジタルコレクション PID 863683,17コマ.山城国条)

武藏國第八十三……都筑郡…… (同25コマ.武蔵国条)

『延喜式』の利用版は,皇典講究所・全国神職会校訂『延喜式:校訂』上巻,大岡山書店,1929年である.巻9神祇9・神名式上は山城国について「綴喜郡十四座」,武蔵国について「都筑郡一座」と記す.

綴喜郡十四座 大三座 小十一座 (巻9,刊本258頁/国立国会図書館デジタルコレクション PID 1442211,164コマ)

武藏國卌四座 大二座 小卌二座……都筑郡一座 小 杉山神社 (巻9,刊本314頁/同192コマ)

一方,経済雑誌社編『国史大系 第3巻』1897年所収『続日本後紀』の承和5年2月22日条は,同じ武蔵国の郡名を「都築」と印刷する.これは利用版上の行政郡名の異表記として重要であるが,9世紀の原本字形又は近代名字「都築」の直接起源を単独で確定するものではない.

庚戌。武藏國都築郡枌山神社預之官幣。以靈驗也。 (『続日本後紀』承和5年2月22日条,刊本243頁/国立国会図書館デジタルコレクション PID 991093,129コマ)

以上の古代・平安期利用版では,山城を「綴喜」,武蔵を「都筑」又は「都築」とする.直接確認できるのは郡名及び郷名であり,古代の名字「綴木」ではない.ただし,これは「綴木」字形が歴史上存在しなかったことを意味しない.後述する1234年文書及び1706年口上書の翻刻は,山城国綴喜郡に対応する「綴木郡」を記す.同一地域の異表記と,氏族の移動又は血統同一性とは区別する.

3.4.1 年代と名称の機能の対照

付表4Aは各作品の成立・記事対象・利用伝本の年代を,付表4Bは国名,郡名,郷名,宮号及び人名要素を対応させる.武蔵国の「都筑」「都築」は山城国の「綴喜」と別の行政地名であり,音の類似だけから同一郡又は住民の移動を認定しない.また,人名にツツキ系要素が含まれても,その語形だけでは世襲名字の成立を示さない.

3.5 饒速日命後裔説の史料的位置

『古事記』神武段は,邇藝速日命が登美夜毘賣との間に宇摩志麻遲命をもうけ,物部連・穗積臣・婇臣の祖であると語る.『日本書紀』神武紀も櫛玉饒速日命を物部氏の遠祖とする.しかし,いずれにも山代,大筒木又は綴木との接続はない.

故邇藝速日命,娶登美毘古之妹登美夜毘賣,生子宇摩志麻遲命。此者物部連・穗積臣・婇臣祖也。 (『古事記』神武段,刊本69頁/国立国会図書館デジタルコレクション PID 991097,48コマ)

昔有天神之子……號曰櫛玉饒速日命……此物部氏之遠祖也 (『日本書紀』神武紀,刊本88―90頁/国立国会図書館デジタルコレクション PID 991091,52―53コマ)

一方,『古事記』の山代国造祖は天津日子根命,『日本書紀』本文の山代直祖は天津彦根命とされる.これは神話的祖系であって世代ごとの系譜証明ではないが,少なくとも記紀本文は山代祖系を饒速日命へ単線化していない.

次天津日子根命者……山代國造……等之祖也。 (『古事記』上巻,刊本25頁/国立国会図書館デジタルコレクション PID 991097,26コマ)

次天津彥根命,是凡川內直,山代直等祖也。 (『日本書紀』神代上,刊本28頁/国立国会図書館デジタルコレクション PID 991091,19コマ)

『先代旧事本紀』巻3は饒速日尊に随伴した32人の一人として「天伊岐志邇保命」を挙げ,「山代國造等祖」と注記する.この配置は,伊岐志邇保命を饒速日尊の後裔とするのではなく随伴者とする.同書巻10には天目一命,阿多根命,曾能振命等をめぐる複数の山代・山城・山背国造伝承が並ぶが,「綴木氏祖」とは記さない.

天伊岐志邇保命。/山代國造等祖。 (『先代旧事本紀』巻3,『国史大系 第7巻』刊本212頁/国立国会図書館デジタルコレクション PID 991097,120コマ)

『新撰姓氏録』の未定雑姓・山城国条には「山代直 火明命之後者。不見。」とある.未定雑姓序は,古記に違い旧典に漏れる姓祖を別巻としたことを明記する.火明命と饒速日命を同一化する別伝承を接合すれば後裔説を組み立てられるが,『新撰姓氏録』自体は饒速日命後裔とも山代綴木とも記さない.複数文献の異なる伝承を後世に接合した系譜説と,個々の原文を区別する必要がある.

山代直 火明命之後者。不見。 (『新撰姓氏録』未定雑姓・山城国条,『群書類従 第拾七輯』刊本215頁/国立国会図書館デジタルコレクション PID 1879818,112コマ)

3.6 小括

古代山代・山背国南部にツツキ地域が存在したことは,記紀の宮号・地名と行政地名資料を併せて確認できる(P1).ただし,宮跡の厳密な位置や現行郡界との一致を確定したものではない.本章で確認した利用本文から,古代綴木姓又は古代の原字としての「綴木」を確認したとはしない.この未確認は古代社会全体における不存在を意味せず,次章の前近代文書由来翻刻の用例を否定するものでもない.

4 「綴木」字形と綴喜郡異表記――命題P2・P3

本章は,「綴木」という字形が資料に現れること(P2)と,それが綴喜郡を指す異表記として使われること(P3)を分けて検討する.さらに,歴史的文書の刊行翻刻と,近現代著者による古代地理の説明・再構成を区別する.

4.1 1234年付文書と1706年付口上書の刊行翻刻

4.1.1 天福2年(1234)僧圓定田地寄進状

天福2年9月22日付「僧圓定田地寄進状」は,本稿が採用する中世の「綴木郡」用例の中核である.『大日本古文書 家わけ第十八 東大寺文書之九』849号,119―120頁に所収され,119頁の公開版面で次の所在句を直接確認できる([50]).

在山城國綴木郡大住郷香嶋里拾參坪内

この版面の「綴木」は明瞭であり,当該所在句の「木」に「喜」へ改める小字注は付されていない.同頁の別箇所には「垣」等の小字注があり,翌120頁の年紀・署名には欠字を示す枠と小字の補読がある.したがって,翻刻者が校訂情報を表示する刊本であることは確認できる.ただし,注がないことだけから1234年原本の筆跡と同一であると断定せず,原本・写しの別と原字形は別途確認を要する.

『鎌倉遺文 古文書編 第7巻』(1974年)145頁,4690号にも対応する.西尾知己作成・遠藤基郎公開の東大寺文書関係一覧は,天福2年9月22日,寄進者円定,山城・綴喜・大住郷,東大寺文書(百巻91),鎌倉遺文7巻4690号を対応させる([60]).「ムラの戸籍簿」データベースも同巻145頁を出典として「在山城国綴木郡大住郷香嶋里拾参坪内」と採録する([61]).前者の「綴喜」は地域整理欄,後者の「綴木」は引用本文欄であり,これを二刊本の異同と誤認しない.

記録された対照は,『大日本古文書』版面と『鎌倉遺文』を出典とする公開採録の所在句との照合に限られる.核心の「綴木郡大住郷」は一致するが,後者は採録段階で「國/国」「參/参」等が現代表記化されており,『鎌倉遺文』の版面そのものを全文対校したとは記さない.同書145頁の版面・注記を取得していないため,二翻刻の全文・補読・異体字に関する対校は未完了である(付表5).

二書は同一の寄進状を収めるため,文書数は一通である.仮に両翻刻が一致しても,それだけで独立した二つの中世文書証拠にならない.また,本書の「九一巻」と公開一覧の「百巻91」は所収巻を指し,データベース[61]の「91号」という表示とは単位を区別する.849号は『大日本古文書』,4690号は『鎌倉遺文』の収録番号である.

百巻本の該当原文書画像は本稿では未確認である.史料編纂所の編纂ノートは,成巻文書の影写本群及び写真帳群を案内し,写真資料の閲覧端末での利用を説明する([62]).現時点では,原本・後代写の判定,写真帳の該当冊・コマ,原字形,筆跡及び刊本の校訂凡例との対応を確定できない.それでも,権威ある学術翻刻に中世年紀文書の地名として「綴木郡」が採録されること自体は,積極的に採用すべき証拠である.

4.1.2 宝永3年(1706)市辺村口上書

提供画像の編集見出しは,宝永3年8月の口上書を「市辺村百姓十四名が村方、諸講からの排除を訴える」文書として掲げ,所蔵表記を「市辺自治会文書」とする.翻刻本文の差出部分には次の表記があり,「木」の右脇に小字「(喜)」が付される([51],図1).

山城綴木郡 市辺村百姓

この画像から確認できるのは,市辺村百姓14名を差出名義人とする文書の刊行翻刻に,郡名「山城綴木郡」と小字「(喜)」が現れることである.画像は冒頭抜粋であり,全署名,筆記者・代書人及び原文書の同字形は未確認である.特定文書の差出名義と筆記行為を分け,この用例を住民一般の書記慣行へ広げない.

掲載刊本の探索では,城陽市教育委員会『史料が語る城陽近世史 第1集 青谷地域編』(1984年)を地域と資料類型から照合候補とした([63]).ただし,提供画像の掲載頁・資料番号との一致を確認していないため,同書を確定出典としては記載しない.小字「(喜)」が原文書の傍注か刊本編者の校訂かも,凡例未確認の段階では断定しない.

城陽市の2023年度特別展案内は,市辺自治会所蔵・同館寄託の文書群を探索する手掛かりとなるが,当該口上書の翻刻又は原画像の典拠ではない([51]).提供画像にある用例と,その掲載刊本を確定する課題を分離する.

図1 宝永3年(1706)市辺村「乍恐口上書」の刊行翻刻提供画像.「山城綴木郡」の「木」右脇に小字「(喜)」がある.原文書写真ではなく,掲載刊本・頁・注記凡例及び筆記者は未確認.

図1 宝永3年(1706)市辺村「乍恐口上書」の刊行翻刻提供画像.「山城綴木郡」の「木」右脇に小字「(喜)」がある.原文書写真ではなく,掲載刊本・頁・注記凡例及び筆記者は未確認.

4.2 松岡静雄『日本古語大辭典』

利用版は,松岡静雄著『日本古語大辭典』語誌篇,刀江書院,1929年4月18日刊である.従前に再確認した公開版面では,標題紙が国立国会図書館デジタルコレクション2コマ,奥付が717コマ,該当項目が864頁/447コマに当たる([5]).

ツツキ(綴喜、筒木、筒城)〔地〕

和名抄山城國綴喜郡綴喜(豆々木)

繼體天皇の宮號〔紀〕。山城國綴木郡普賢寺村字多々羅の都谷が其遺跡と傳へられ……

見出しに列挙されるのは「綴喜,筒木,筒城」であり,「綴木」を含むのは別見出し「ツツキ(筒木)の宮」の説明文である.後者は近代刊本上の地理説明としての「山城國綴木郡」の用例であり,記紀本文の直接引用又は古代綴木姓の証拠ではない.また,松岡の「和名抄」引用の配置は,第3.4節に示した1869年利用版の郡名訓の配置と区別する.

著者原稿・校正刷り及び正誤表を確認していないため,「綴木」を単純誤植と断定することも,松岡本人が意図して選んだ字形と断定することもできない.確認できる1929年刊本の用例として採用し,成立原因を未決定とする.

4.3 菊池山哉『蝦夷と天ノ朝の研究』

菊池山哉『蝦夷と天ノ朝の研究』東京史談会,1966年の後篇第7章第4節は,197頁/国立国会図書館デジタルコレクション275コマから始まり,問題の表現は200―201頁/277コマの見開きにある([6]).提供画像では,200頁本文に「山代綴木の荏名ツ姫」,201頁系図に「山城ノ綴木ノ荏名津姫」がある.

同一見開きの本文と系図に「綴木」が反復され,他方で「綴喜郡江津村」「大筒木の真若王」「筒木ノ真若王」等が使い分けられている.また,本文は「按ずるに」以下で古代人物の出自を再検討している.古代山代・山背国南部にツツキ地域があったことと,この地理的文脈は整合する.これらを合わせ,本稿は「古代山代国南部のツツキを対象とする,著者又は編集段階の意図的な再構成表記である蓋然性が高い」と評価する.これは本文配置からの推論であり,原稿による意図の直接確認ではない.

図2 菊池山哉『蝦夷と天ノ朝の研究』1966年,200―201頁.本文と系図の「綴木」の反復,並びに「綴喜」「筒木」「大筒木」の併用を確認できる.色線は提供画像上の加筆.

図2 菊池山哉『蝦夷と天ノ朝の研究』1966年,200―201頁.本文と系図の「綴木」の反復,並びに「綴喜」「筒木」「大筒木」の併用を確認できる.色線は提供画像上の加筆.

反復は単発のミスタイプとする説明を弱めるが,組版又は編集段階で同じ処理が反復された可能性まで排除しない.原稿・校正資料がないため,字形選択の主体を菊池本人に限定しない.また,菊池は「山代之荏名津比賣」,大筒木関係の王名,『記伝』に言及する綴喜郡比定等を接合して論じており,「山代綴木」を古代史料の忠実な翻刻として引用してはいない.したがって,1966年の再構成表記を古代原史料の「綴木」字形又は古代の世襲姓の直接証拠としない.

4.4 丹羽基二『難姓・難地名事典』

4.4.1 凡例が指定する「関連姓氏」

丹羽基二『難姓・難地名事典』(新人物往来社,1994年)については,164頁の項目画像と凡例画像の二点を直接照合する([56]).凡例には,見出し語は地名・姓氏両方に存在する語を採り,一部に地名以外に由来する難姓も挙げるとあり,記載欄を次のように定義する.以下は画像の句読点に従う.

二つ、①はおもな所在地
②略注
③おもな関連姓氏

図3 丹羽基二『難姓・難地名事典』凡例の提供画像.「③おもな関連姓氏」を直接確認できる.画像に頁番号はない.

図3 丹羽基二『難姓・難地名事典』凡例の提供画像.「③おもな関連姓氏」を直接確認できる.画像に頁番号はない.

164頁右側の「綴喜(つつき・つづき)」項は,①を「京都府綴喜郡」とし,③欄に「綴・続・津築・綴木・綴城・」を掲げる.抜粋画像に見える列の末尾には中黒があり,続きの有無をこの画像だけで補わない.本稿の論証に必要な「綴木」は③欄内で明瞭に判読できる.

丹羽は,凡例で定義した「おもな関連姓氏」の欄に綴木を掲げ,綴喜に関係する姓氏として明示的に分類している.これは単なる字形列挙ではなく,1994年の辞典編纂段階における姓氏認識を示す直接的な辞書学的証拠である.一方,関連の具体的種類と採録典拠は別途検証を要する.

図4 丹羽基二『難姓・難地名事典』1994年,164頁の提供画像.右側の「綴喜」項の③欄に「綴木」がある.左側に続く同見出しの別項目の説明とは分けて読む.

図4 丹羽基二『難姓・難地名事典』1994年,164頁の提供画像.右側の「綴喜」項の③欄に「綴木」がある.左側に続く同見出しの別項目の説明とは分けて読む.

一方,「関連姓氏」は,凡例だけでは異体字,同一語源,同族又は血統関係のいずれを表すかを特定できない.「丹羽が綴木を綴喜の正式な異体字と認定した」「古代綴喜氏から綴木氏が分かれた」との記述には進めない.また,1994年の掲載事実だけで姓の成立年代又は門司家の造姓事情を確定することもできない.その歴史的な位置付けは,前近代年紀文書・系図・地域史・昭和以前の人名資料との総合によって論じる.

4.4.2 語源説明と推量表現の区別

右側「綴喜」項の②欄は「綴喜は瑞祥文字を当てたもので、築城の意。城を築くに由来したものではなかろうか。ほかに、長く続く地形、崩壊地形などの説もある。」と記す.「綴喜は瑞祥文字を当てたもの」「築城の意」という記述に続き,「城を築くに由来したものではなかろうか」と推量形を用い,別説も併記する構成である.本稿では,前半を丹羽の説明,築城への由来を丹羽の推測,長く続く地形説と崩壊地形説を同項が紹介する別説として分ける.これらを一つの確定説へ書き換えない.

さらに,画像左側の「綴喜(つつき・つづき)」別項目では,①に京都府綴喜郡,福島県いわき市内郷綴町,秋田県秋田郡鷹巣町綴子,神奈川県横浜市都筑区を挙げ,②で「ツ・ツキは一般に土を築くこと。土手、堺、堤などがこれ。文字は地形などが連続することにより佳字に転化したり、都城などを築くことにも拡大解釈される。」と説明する.これは隣接項目の叙述であり,右側の「城を築くに由来したものではなかろうか」と接ぎ合わせて一つの引用文にはしない.所在地も1994年当時の記載として扱う.

この資料は,丹羽が1994年時点で語源説明・異説・関連姓氏をどう整理したかを示す.古代語の音韻,最古用例,地形の形成史及び同時代の地名命名をそれぞれ検証していないため,本稿は丹羽説の存在を示すにとどめ,古代語源を確定しない.「瑞祥文字」説も,綴喜から綴木への改姓を示す年代付き記録の代わりにはならない.

4.4.3 先行辞書・採録基準と都筑区名

凡例から確認できる採録方針は,地名・姓氏双方に存在する語を中心とし,例外として地名以外に由来する難姓も含めるという範囲である.個々の関連姓氏の選定基準,採録地,採録年及び依拠文献は,提示された二画像には書かれていない.公開書誌もこの項目ごとの典拠を示さない.丹羽の先行著作『姓氏・地名・家紋総合事典』(1988年)の書誌は確認でき,比較対象として挙げられるが,1994年の「綴喜」項が同書を参照したとする直接証拠は得られていない([64]).先行辞典の類似表現が見つかっても,著者・刊年が一致するだけで参照関係を確定せず,両本文及び引用注の対応を要する.

横浜市の公式年表では,区名選定は1993年10月,条例による決定は同年12月,区の成立は1994年11月6日である([65]).丹羽辞典はこの選定後の1994年刊である.国立国会図書館とCiNiiの書誌は1994年11月,出版社の販売案内は同年10月21日発売としており,刊行月と発売日の表示差を区別しても,1993年の区名選定より後であることは変わらない([56]).同書を区名選定動機の独立の根拠には用いず,1994年時点の地名・関連姓氏の辞書的整理として位置付ける.選定理由は,1993年10月26日付の横浜市区名選定委員会報告書で独立に確認する.第一理由は歴史的地名の継承であり,「都を筑く」は同報告書の第二理由に記された将来願望である([71]34―35頁,第8.6節).

4.5 用例の対象分類

同じ又は近い語形でも,対象が地名,行政区画,宮号,党名,個人名,氏称又は名字のいずれかによって証拠能力は異なる.表5は,利用版上で確認した主要表記を対象別に整理する.

表5 ツツキ系表記と「綴木」用例の対象分類

表記

確認した時代・資料

分類

本文上の対象

評価

都都紀

『古事記』仁徳段

地名・宮を含む表現

「都都紀能美夜」

音仮名表記.氏族名ではない.

筒木

『古事記』仁徳段ほか

地名的修飾・個人名要素

筒木韓人,大筒木垂根王

用例ごとに分類する.

筒城

『日本書紀』仁徳紀・継体紀

地名・宮号

筒城岡,筒城宮,山背筒城

同書本文の字形.

綴喜

平安期の地名資料・法制資料

郡名・郷名

山城国綴喜郡等

行政地名.

綴喜

『古今著聞集』1926年刊本

個人名の冠称

綴喜平太經家

利用版の字形.異版あり.

綴喜

『平家物語 中編』1935年刊本

党名

綴喜黨

軍記物語上の集団名.

都筑

武蔵国の郡名,『吾妻鏡』刊本

郡名・個人名の冠称

都筑平太

諱なし.綴喜との同族性は不明.

都築

『続日本後紀』1897年刊本 郡名の刊本字形 武藏國都築郡

利用版ごとの字形.氏族・名字の同一性を示さない.

綴木

天福2年(1234)「僧圓定田地寄進状」学術翻刻

郡名

山城国綴木郡

中世年紀文書の刊行翻刻にある地名表記.原文書画像は未確認.

綴木

宝永3年(1706)市辺村口上書の刊行翻刻

郡名

山城綴木郡(「木」の右脇に小字「(喜)」)

綴喜郡の異表記.原文書字形,小字注の凡例及び一般的慣行は未確認.

綴木

佐竹家関係の1993年刊系図(対象人物1802―1811年)

系図上の氏称

千三郎 綴木氏を称

氏称記事を確認.掲載頁・親見出し,生前公称,継承・読みは未確認.

綴木

『相生町誌』1973年,提供頁情報464頁;公的地名資料

分出元の家名・家伝・地名 葛木姓世帯の備考に記された赤松高瀬綴木家と現美波町赤松字高瀬

1973年当時は日和佐町.地名対応は世代接続を証明しない.

綴木

松岡1929年,菊池1966年,門司の近現代資料

地名説明・学術的再構成・名字

山城國綴木郡,山代綴木,門司綴木家

各時代・資料類型の用例.松岡の用字原因と相互の血統関係は未確定.

綴木

丹羽基二『難姓・難地名事典』1994年

関連姓氏の分類

「綴喜」項③の「綴木」

凡例は③をおもな関連姓氏と明記.1994年の分類を確認.古代姓・同族性の直接証拠ではない.

4.6 小括

前近代年紀文書の刊行翻刻に「綴木郡」が現れ,綴喜郡域との対応を確認できる(P2・P3).1234年寄進状の二翻刻は同一文書一通として数え,原文書字形と刊本全文の対校は未了とする.1706年口上書の用例も翻刻画像の範囲で採用する.近代以降には松岡の用字,菊池の反復と使い分け,及び丹羽の関連姓氏分類という,性格の異なる知見が加わる.

菊池の「山代綴木」は地理的に整合し,著者又は編集段階の意図的再構成である蓋然性が高い.これを単発のミスタイプとして排除しない.「綴木」の複数領域での記録は,第7章の1913年の同時代姓氏用例とも併せて評価できる.ただし,前近代地名表記,近代の再構成及び辞書的分類のいずれも,古代綴木姓又は門司への血統継承を直接示さない.

5 人物・集団のツツキ系称呼と「綴木氏」記事――命題P4

本章は,個人の冠称,通称・諱,党名,主従関係及び活動地域・年代を史料ごとに分解する.「つつきの平太」「綴喜黨」等は人物・集団表記の検討対象となるが,「綴木氏」という同字形の人物氏称を直接満たす資料とは限らない.本文と表6で人物同定を検討し,付表7A―Cで伝本年代と各属性,近現代著者の解釈を一覧化する.

5.1 地名・冠称・刊本異表記の区別

「つつきの」「綴喜」「都筑」は個人名の前に付く冠称であり,地名に由来する可能性を検討できる.ただし,その由来地・所領・出生地を表記だけで決めない.「平太」は通称,「経家/經家」は諱として分け,「都筑平太」にない諱を他書から無表示で補わない.冠称の使用から都筑郡の全住民,古代氏族又は血縁集団の範囲は確定しない.「大筒木垂根王」等も古代本文の個人名であって,後世の世襲名字「綴木」の初見とはしない.佐竹家系図の「綴木氏を称」はこれと別の氏称記事である.

山城国綴喜郡と武蔵国都筑郡は別の行政地名である.『古今著聞集』1926年刊本が「綴喜」と記しても,その人物は同じ文で「武蔵國の住人」とされる.この地理情報を,漢字が山城の郡名と一致するという理由で山城居住へ置き換えない.逆に武蔵との対応が整合することは,冠称を都筑郡に比定する検索仮説を与える.確定には所領・居住地等の記録を要する.

5.2 『古今著聞集』諸本のつつき平太経家

『古今著聞集』は橘成季による建長6年(1254)成立の説話集である.利用する宮内庁書陵部本は,目録番号500・21,御所本,20巻10冊で,書陵部の目録は「写 江戸初期」とする.国書データベースの書誌ID 100190287とこの目録番号との対応も確認した([33]).従前に実見した巻10馬芸・第14・第364話の画像264―266はこの後代写本であり,1254年の自筆原稿ではない.

つつきの平太経家 (書陵部本500・21,国書データベース100190287,画像264左頁.くずし字を通行字体に移した翻字であり,冠称は原文の仮名を漢字化しない.続文の照合範囲は画像265―266.)

対照刊本は,山崎麓校註『日本文学大系 校註 第10巻 宇治拾遺物語・古今著聞集』国民図書,1926年,565―567頁/国立国会図書館デジタルコレクション311―312コマである([7]).冠称・通称・諱は「綴喜/平太/經家」であり,居住地域は武蔵国,前の主従関係は平家郎等,捕縛後の預け先は景時,赦免後は頼朝方の厩の別当という説話である.平家への奉公を平氏血縁と読み替えず,捕縛時点を1185年と補わない.

武蔵國の住人綴喜平太經家は、高名の馬乘馬飼なりけり。平家の郞等なりければ、鎌倉右大將めしとりて、景時に預けられにけり。 (刊本565頁/国立国会図書館デジタルコレクション311コマ)

但し囚人經家ぞ候……勘當ゆるされて、厩の別當になされにけり……經家いふかひなく、入海して死にければ知るものなし。 (刊本566―567頁/同312コマ)

幕下、富士川あひざはの狩に出でられける時は…… ([7]566―567頁/312コマ.句読点は利用刊本による.)

これは刊本が「狩」と記す随行譚であり,富士川合戦の記事ではない.狩猟の年は記されず,1180年の合戦又は特定年の巻狩りへ無条件に結び付けない.説話上,捕縛・赦免・厩の別当任命と,その後の狩猟随行という順序を読み取れる範囲に限る.本文に捕縛の年月日はなく,「鎌倉右大將」「幕下」という後世からの呼称だけで捕縛年を決めない.「厩の別当」の制度上の実態や逸話の史実性も,別の記録による照合を要する.末尾の「入海して死にければ」は死の伝承を示すが,年,海域,合戦名,壇ノ浦又は門司を特定しない.

従前の照合で直接対照できた表記差は,江戸初期写本の仮名「つつきの」と1926年刊本の漢字「綴喜」である.後代刊本段階で採用された漢字表記と評価できるが,当該書陵部本を直接漢字化したという編集経路,又は漢字表記が1926年に初めて生まれたことまでは確認していない.第6稿が挙げた1914年・別の1926年刊本の「綴喜の平太経家」,1946年刊本の「つゞきの平太経家」,校訂本文の「都築」は,版・頁・底本の再特定が必要な比較候補へ戻す.これらを確認済み異本として加算せず,各伝本の存在や異表記の可能性を否定するものでもない.

5.3 『吾妻鏡』の都筑平太と人物同定

『吾妻鏡』は鎌倉末期に編纂されたとされる幕府編年史であり,記事の日付と編纂年代,現存伝本の書写年代を分ける.北条本は16世紀以後の収集・補写を含む複合的な伝本であり,一つの書写年を全巻に与えない(高橋秀樹[74]).本稿が実見したのは正宗敦夫編の1930年刊本である.第1の文治元年(1185)10月24日条に属する随兵60人の列,第3の建久元年(1190)11月7日条に属する行列の廿一番に,それぞれ「都筑平太」を確認した([8][9]).対象条の北条本・吉川本等の原字対校は未了である.

次隨兵六十人……都筑平太…… (文治元年10月24日条,[8]216―218頁/122―123コマ.「次隨兵六十人」は216頁,「都筑平太」は218頁にあり,連続した一文の引用ではない.)

廿一番……都筑平太…… (建久元年11月7日条,『吾妻鏡 第3』刊本56―57頁/同31コマ)

両記事の「都筑平太」には諱・親族・所領がない.通称「平太」は一致する.説話の頼朝・景時との関係から想定される12世紀後半という活動時期は,1185年・1190年の記載と重なり得る.ただし,説話に年次がないため,これは同じ年の活動を確認したという意味ではない.活動圏も,説話の武蔵・頼朝方と『吾妻鏡』の頼朝の随兵・行列という文脈が対応する.ただし,後者の冠称だけで都筑郡内の居所を確定できず,同じ通称をもつ別人も排除できない.通称・年代・活動圏の整合を条件に,同一人物である可能性を蓋然的な仮説として残すが,表4の区分では直接接続を欠く「検証仮説」とする.同一性を事実として記すこと,又は引用を「都筑平太経家」に改変することはしない.

表6 経家・都筑平太に関する文献別記載と同定限界

文献・確認媒体

冠称/通称/諱

主従・身分の叙述

活動・年代の範囲

同定上の限界

『古今著聞集』江戸初期写本/1926年刊本

つつきの/平太/経家;刊本は綴喜/平太/經家

武蔵国住人.平家郎等→景時預かり→頼朝方

赦免・厩別当,狩猟随行.捕縛・狩猟・入海年不明

説話上の履歴.「綴喜」から山城出身を導かない.

『吾妻鏡 第1』1930年刊本

都筑/平太/諱なし

頼朝の随兵列

文治元年(1185)10月24日条

所領・親族なし.経家との同一性は検証仮説.

『吾妻鏡 第3』1930年刊本

都筑/平太/諱なし

行列の一員

建久元年(1190)11月7日条,廿一番

同上.1185年記事との同一性も別に照合する.

二つの『吾妻鏡』記事同士も,通称が同じという理由だけで無条件に一人へ統合しない.所領,親族,別名又は役職を伴う追記が得られれば同定は強まり,死亡年や同日別所の活動など両立しない記載が見つかれば再評価する.現段階の仮説は,平治の乱による一族追放,綴党全体との血縁及び門司家の祖先という別命題を含まない.「同定できない」は「別人と証明された」ではない.

5.4 軍記物語の綴喜黨・綴黨

『平家物語』は13世紀に原形が成立したとされ,その後も諸本が展開した作品である([76]).本稿の利用物は三教書院編輯部編『平家物語 中編』1935年6月30日刊であり,底本写本とその書写年代は本稿では未確定である.244頁/125コマの「坂落」に「綴喜黨」がある([10]).一ノ谷という場面は元暦元年(1184)の合戦に対応するが,印刷された字形を1184年の原記録の文字とはしない.

……西黨,綴喜黨,總じて私の黨の兵共,源平互に亂れあひ…… (刊本244頁/国立国会図書館デジタルコレクション125コマ)

「綴喜黨」は複数の党名の一項で,「兵共」は列挙された党の兵を総称する文脈にある.個人の通称・諱,親子関係,共有所領は記されず,経家も登場しない.この列挙だけから,経家の血縁一族,所領共同体又は経家指揮下の軍勢とは同定できない.周囲の合戦叙述を踏まえても,綴喜党の個別指揮系統をこの句だけで確定しない.「綴喜の兵」という固有句へ切り直さず,当該刊本が一ノ谷に綴喜党を配置することと,実際の参戦が同時代史料で裏づけられることを分ける.

寛永年間(1624―1644)刊『源平盛衰記』巻37「平家開城戸口並源平侍合戦事」の従前に確認した一ノ谷の列挙は,「黨ニハ小澤横山兒玉黨猪俣野與山口ノ者共」と記す([12]11コマ,句読点を補わず抜粋).この列挙に綴喜・都筑を見いださないことは,この版のこの箇所に限定した結果である.『源平盛衰記』全巻・全伝本に綴喜党がないという結論には広げず,『平家物語』の字句をこの箇所へ移すこともしない.

『源平盛衰記』の成立は14世紀前半とする説が一般的だが定説とせず,現存写本は16世紀以後のものとする伝本研究がある(岡田三津子[75]).従前に実見したのは寛永刊本であり,中世写本ではない.巻21「小坪合戦事」は治承4年(1180)の相模・小坪での戦闘を語り,武蔵国住人の綴党の大将として太郎・五郎兄弟を置く.綴太郎が畠山の郎等を名乗ること,和田小次郎と戦うことも続く版面で確認できる([11]17―18コマ).太郎・五郎の兄弟関係は本文の明示であるが,平太・経家の名はなく,党全体の血縁性や所領共有までを示さない.

武藏國ノ住人綴黨ノ大將ニ太郎五郎トテ兄弟二人アリ ([11]巻21,PID 2544838,17コマ右頁,14丁裏.原文にない冒頭「爰ニ」を除き,「國ノ」の「ノ」を復し,第6稿の16コマを訂正.句読点・振仮名は補わない.)

綴喜党と綴党は,表記の近さ,武蔵との対応,1180年・1184年という時間的近接から比較すべき名称である.しかし,党名が対応すること,同じ構成員が継続したこと,経家がその一員であることは別々に証明を要する.その検討に,白井喬二の1930年刊『源平盛衰記』下巻を中世軍記の原典として用いない.同書は近代の歴史小説であり,「綴喜の兵」の該当頁・原文も未特定である([16]).旧稿の出典帰属は撤回するが,同書全体に関連叙述がないと断定したものではない.

5.5 近現代の経家叙述

斉藤直芳『弓馬と名将』(名将シリーズ2),雄山閣,1966年,272頁の書誌確認記録は第6稿から継承する([14]).目次上の「武士と馬術」151―154頁は探索候補であり,経家記事の収録頁と確定したわけではない.当該本文,採用字形,依拠史料は本稿では未確認のため,経家像や諸本異同の根拠に数えない.1970年の『弓術物語―弓馬と名将』も,原文を確認するまで同一内容の証拠として重複加算しない.

佐藤春夫『武士の勃興』(現代人の日本史6),河出書房新社,1959年,342頁には,目次上「平治の乱というクーデター」が301頁からあると第6稿は記録する([13]).しかし,「綴喜一族が平治の乱で都を追放された」とする箇所の頁・原文・典拠は従前の照合でも特定できない.第6稿の全文検索による不見は網羅的な原文精読の代わりにはならない.佐藤への帰属及びそれを根拠とする経家の出自説明は撤回し,同書にその叙述がないことまで証明したとはしない.

『昭島市史』(1978年)の公開本文は,綴党を綴喜党とも記し,都筑郡に置くとともに,平氏との関係を推量し,『古今著聞集』の経家説話を引用する([77]446―448頁).ここでは,綴党・綴喜党の対応と都筑郡への比定は市史の整理であり,引用される「平家の郎等」は奉公関係をいう.後者だけから平氏の血縁一族を導くことはできない.同市史が挙げる武蔵七党の構成にも出典別の差があり,固定した単一集団一覧を前提にしない.石野の説明との類似は研究史上の比較対象となるが,参照関係又は独立の証言であることは未確定である.

横浜市立図書館が公開する『緑区史 資料編 第1巻』の目次は,治承4年の綴太郎・綴党・綴喜党,元暦元年の都筑党,文治元年・建久元年及び建久6年(1195)の都筑平太関係項目を案内する([78]中世第1章40―49).これは次の本文照合先を示す検索情報であり,目次の現代表記を原史料の原字として引用しない.とくに1195年項目は,出典・年月日・原文及び人物属性を未照合であるため,経家の確認済み活動終年へ加えない.1230年代の都筑経景等の項目も,同一冠称だけで経家の後裔とはしない.

5.6 石野瑛の綴党・経家・元寇記事

石野瑛『皇国史と武相郷土』(神奈川県郷土愛叢書1),神奈川県図書,1941年,98―99頁相当/57コマについて,本稿が利用できる本文は第6稿に収録されたNDL OCRの転記である([15]).従前の照合では,原版面の再照合はできておらず,以下はその継承転記として示す.「功動」「資經」「戶部〓」等の原字・字順は未確定である.

尙また綴黨があつて舊都筑郡内の地に居た。馬乘馬飼に高名の都筑平太經家もこの族の一人である。尙又八代博士は元冦に功動を樹てた小貳資能・資經父子の祖武藤氏は今の橫濱の戶部〓にゐたと說かれてゐる。 (刊本98―99頁相当/国立国会図書館デジタルコレクション57コマ,第6稿所載NDL OCR転記を継承,原版面未再確認)

継承したOCR転記を文ごとに読むと,第一文は綴党を旧都筑郡内に置き,第二文は「都筑平太經家」をその一人とする.これは石野による1941年の地理的比定・人物同定・集団帰属の説明であり,中世の所領文書又は血縁系図の引用ではない.「尙又」以後は八代博士説の紹介へ移り,元寇で功を立てた対象は小弐の父子,その祖として述べられるのは武藤氏である.転記の「資經」を第6稿の解説のように無注記で「経資」へ直さず,原画像照合まで字順を保留する.主語の分離はこの人名字順の決定とは独立に行える.

したがって,石野の元寇文を経家又はその後裔へ接続する従来解釈を撤回する.これは継承転記の文構造から維持できない接続を取り除く判断であり,未見の版面の全字形を確定したとの主張ではない.同書の「この族の一人」という近代著者の同定は研究史上の説として残すが,経家の血縁,元寇従軍又は門司定着を実証する資料にはしない.八代博士説の原出典・対象人物・所領の照合も別課題とする.

5.7 佐竹家関係刊行系図の「綴木氏」

渡邉喜一編・山中良二郎監修『新編佐竹七家系図』(加賀谷書店,1993年2月)は,佐竹壱岐家・式部家・左近義方家・北家・東家・南家・西家を対象とする刊行系図である([52]).図5の人名第二字は三画であり,「千三郎 綴木氏を称。」と読む.この字形は第10稿でも再確認した.氏称記事の存在を積極的に評価し,対象人物の生没年と利用刊本の年代を区別する.

5.7.1 字形・年紀・親族欄の確認

千三郎 綴木氏を称。/享和二年壬戌(一八〇二)七月二日 生。/文化三年丙寅(一八〇六)九月二十五日 袴着。/同八年辛未(一八一一)八月十六日 没。十歳。

上記は図5の氏称・年紀部分の転記であり,「/」は本稿で設けた区切りである.和暦の月日はそのまま記し,西暦併記は年の対応に限る.文化8年は1811年に対応し,享和2年出生と「十歳」の記載は数え年として整合する.満年齢十歳との意味には読まない.

図5 『新編佐竹七家系図』の千三郎条として提供された切抜き画像.「千三郎」「綴木氏を称」と年紀・母欄を再読できる.頁番号,親見出し及び全体の系線は写らない.該当頁は未確定であり,書誌の総頁数325pを引用頁には用いない.

図5 『新編佐竹七家系図』の千三郎条として提供された切抜き画像.「千三郎」「綴木氏を称」と年紀・母欄を再読できる.頁番号,親見出し及び全体の系線は写らない.該当頁は未確定であり,書誌の総頁数325pを引用頁には用いない.

図5の上部には系線と「男」があり,母欄には「母 戸村氏。」及び括弧内の「義敬五女」が読める.これは刊行記事における母方属性の記載として採用できる.一方,父の氏名・親見出し・兄弟姉妹欄は切抜き外にある.したがって,父名,佐竹七家のうちの所属家,兄弟の氏名・出生順位,同母・異母の別及び継承者を,この画像だけで補わない.母欄の記載自体も,近世の同時代原資料で独立に確証した親子関係とは区別する.

5.7.2 該当頁と編纂過程

国立国会図書館サーチの書誌は,編者・監修者・出版者・1993年2月刊を示し,資料の数量を325pとする([52]).この325pは総頁数であり,千三郎条の掲載頁を示す書誌項目ではない.旧稿の「325頁(提供情報)」には総頁数との混同の可能性があるため,本稿は該当頁を未確定とする.切抜きの図書への帰属は提供情報によるもので,全頁・奥付との現物照合はなお必要である.

秋田県立図書館の調査回答は,1993年版「はしがき」を紹介し,同書が原武男編『新編佐竹氏系図』(加賀谷書店,1973年7月)の付録「佐竹氏五家略系図」を基礎として増補されたと説明する.同回答が示す先行版付録の範囲は133―167頁である([79][80]).これにより刊本間の編纂上の関係と次の照合範囲は具体化する.ただし,本稿が直接確認したのは図書館の公開回答であり,1993年版「はしがき」の版面又は1973年版付録本文ではない.

この編纂経緯だけでは,千三郎条が1973年版から引き継がれたのか,1993年版の増補で加わったのかは決まらない.まず1993年版の前後頁・親見出し・系線・凡例・典拠注を確定し,1973年版の対応項目と対校する.次いで,各版が実際に用いた家譜・提出系図の書名,所蔵,請求番号,成立・書写年,追記及び編者の補筆を調べる.底本の特定前に特定の家譜を出典として割り当てず,同じ先行系図を継ぐ二刊本を独立した二証言として数えない.

5.7.3 氏称記事の積極的評価と継承の未証明

現段階の積極的な判断は,「佐竹家関係の刊行系図が,佐竹家子弟の一人に綴木氏称を記録する」である.対象人物の年代は1802―1811年,直接再読した媒体は1993年刊系図として提供された画像であり,両年代を同一視しない.本稿の命題P4は,この人物氏称記事の存在という範囲で満たされる.

十歳没という記載と氏称記事だけでは,継承者を伴う家の成立・存続,世襲,生前の公称,読み,命名者又は命名理由までは証明できない.早世だけを理由に継承者の不存在を断定することもできない.家の継承を論じるには,先行系図・底本家譜と,同時代の氏称・家督・養子・相続等の記録を照合する必要がある.

1234年付文書の学術翻刻及び1706年付口上書の刊行翻刻に地名「綴木」の用例がある以上,この氏称を無根拠に前例のない思いつきとする必要はない.既存の地名・称呼又は別の伝承を参照した可能性は検証仮説として残る.しかし,千三郎条は命名理由を説明しておらず,山城国綴喜郡の異表記を直接参照したこと,山城の住民集団を継いだこと,又は徳島・門司の綴木家と関係することは判断不能である.

5.8 小括

中世の「つつきの平太経家」「綴喜平太經家」「都筑平太」は個人冠称・通称・諱の組合せであり,「綴喜黨」「綴黨」は軍記中の党名である.経家と都筑平太の同一人物説は,通称・年代・活動圏が整合する範囲の検証仮説として残す.二つの党名の対応,経家の所属,血縁,共有所領及び軍勢の継続性をその仮説へ一括しない.一方,佐竹家関係刊行系図の「綴木氏を称」はP4を当該刊行記事として満たす.画像の人名は千三郎である.対象人物は1802―1811年,確認物は1993年刊として提供された切抜きであり,該当頁・父名・兄弟関係,底本家譜,生前公称,読み,命名理由,継承者及び独立家の成立は未確定である.1973年先行版との編纂上の関係は確認できるが,当該記事の継承経路は未確認である.

6 徳島・門司における綴木姓と家――命題P5

本章は,地域に綴木姓の家又は人物の記録があることと,家の成立時点・他地域との血統関係を分ける.徳島の第6.1節は第8稿の検証を継承する.門司では,除籍の記載内容,著者による墓碑観察及び同時代刊行物の氏名を別に評価し,年代と世代接続の到達点を表10・表11に示す.

6.1 『相生町誌』の家伝と赤松字高瀬の独立検証

6.1.1 書誌と1973年刊行資料の分出家伝

書名は『相生町誌』,編者は相生町誌編纂委員会,発行者は相生町,刊行年は1973年である.書誌は徳島市立図書館の公的資料案内でも確認できる([53][83]).464頁として提供された部落史編・世帯表を再読すると,世帯主欄の姓は「葛木」,備考欄の分出元は「綴木家」と読める.従前の照合で双方を綴木姓とした説明は訂正する.備考欄には次の記載がある.

先祖は赤松高瀬綴木家より分れて来たが、詳細不明

図6 相生町誌編纂委員会編『相生町誌』相生町,1973年,部落史編・世帯表.世帯主欄の姓「葛木」と,備考欄の分出元「赤松高瀬綴木家」を区別する.提供見開きから当該姓・備考欄を切り出し,世帯主の名と他世帯情報を非掲載とした.464頁は提供情報であり,画像内に頁番号はない.

図6 相生町誌編纂委員会編『相生町誌』相生町,1973年,部落史編・世帯表.世帯主欄の姓「葛木」と,備考欄の分出元「赤松高瀬綴木家」を区別する.提供見開きから当該姓・備考欄を切り出し,世帯主の名と他世帯情報を非掲載とした.464頁は提供情報であり,画像内に頁番号はない.

備考欄は「農業・かつらぎ西」と記し,先祖を赤松高瀬綴木家に結び付ける分出家伝を載せる.1973年刊の町誌にこの伝承が採録されていることは積極的に評価できる.1973年は刊行時点であり,分出年又は聞取実施年ではない.「詳細不明」は分出の具体的事情が示されないことを表し,家伝自体の無価値又は虚偽を意味しない.

世帯主欄「葛木」と分出元「綴木」の字形差は,伝承が異なる姓表記の家を結ぶ点で重要である.ただし,この差だけでは改姓の実施,読み,その時期・理由又は誤記の有無を決められない.同字形の二家の分出例としては扱わず,葛木姓世帯について赤松高瀬綴木家からの分出が伝えられる記録として採用する.分出人物・年代・続柄・移住経路は未特定であり,隣接世帯の家歴も移入しない.

6.1.2 公的所在地表記と1973年当時の行政区画

美波町の「地域集会所設置及び管理に関する条例」第2条は,高瀬集会所の位置を「美波町赤松字高瀬213番地」と明記する([54]).よって,現在の徳島県海部郡美波町赤松字高瀬という地名の実在は,民間地図だけでなく自治体の公的所在地表記によって確認できる.ここで挙げた所在地は公共施設のものであり,綴木家の屋敷地を特定するものではない.

美波町の公式沿革では,1956年9月30日に赤河内村と日和佐町が合併し,同日の日和佐町への改称を経て,2006年3月31日に日和佐町と由岐町の合併で美波町が成立した.日本郵便の旧新住所対応も日和佐町赤松から美波町赤松への変更を示す([81]).この沿革と住所対応に基づけば,1973年当時の行政区画は徳島県海部郡日和佐町であり,本稿では「赤松高瀬(当時,海部郡日和佐町/現,美波町赤松字高瀬)」と併記する.ただし,この確認は1973年当時の小字境界・地番又は旧住所の全表記を土地資料で対校したことを意味しない.

一方,家伝の採録地である当時の徳島県那賀郡相生町は,2005年3月1日の合併後の那賀町域に当たる([82]).採録地の相生町と,分出元として語られた日和佐町赤松高瀬は,当時から別の町・郡として区別する.現在の美波町という名称を1973年本文へ書き戻さず,現代地名は比定の説明として付す.

実在地名との対応は家伝の地理的具体性を補強し,調査対象を赤松地区の高瀬へ絞る根拠になる.しかし,地名を同定したことは分出人物を同定したことではない.移住年代,経由地,旧居地の筆界,寺院及び門司家との関係は,なお別資料を要する.

6.1.3 町誌の採録過程と原資料への遡及

凡例,部落史編の執筆要領,調査年月日,聞取者・話者,回答の筆記者,原調査票及び編集時の校訂履歴は,掲載画像・公開資料から確認できなかった.したがって,町誌の記述を特定の家族への直接聞取り,編者による戸籍調査又は近世家譜の翻刻と断定しない.原調査票が現存するかも未確認であり,調査未了を廃棄・不存在の証明にしない.

遡及の第一段階は,『相生町誌』の全頁・凡例・序跋・部落史編の担当表示を確認し,那賀町の旧相生町関係編纂文書の保存先で当該世帯表の原調査票・取材記録の所在を調べることである.記録が得られた場合は,誰が,いつ,どの家又は文書を根拠として赤松高瀬からの分出を語ったかを対応させる.聞取日と刊行日,話者の経験と先祖伝承,原回答と編者の要約を分ける.

第二段階は,相生側の掲載世帯と赤松高瀬側の家を別々に調査し,戸籍・除籍の続柄,寺院過去帳の俗名・法名・没年月日,土地台帳・旧登記の所有者と相続,転籍・入籍・養子・奉公・移住等の記録を一世代ずつ照合することである.土地の移転,家の継承及び生物学的な血縁は別の関係であり,同姓や同筆の所有だけで親子線を引かない.該当寺院,関係簿冊及び原調査票の現所蔵は,現段階で確定していない.

原資料の探索には,徳島県立図書館が公開する地方史班「日和佐町の古文書調査」が案内する『徳島県史料所在目録7』(1976年3月刊)が手掛かりとなる([84]).ただし,本稿が確認したのは調査報告の公開本文であり,同目録の赤松・高瀬該当項目や綴木家文書ではない.報告は目録刊行後の資料の散逸・所蔵者変更も指摘しているため,過去の所在情報を現在の所蔵確認へ置き換えず,美波町側の関係資料の現所在から確かめる.

6.1.4 現代電話帳由来の分布資料の限界

電話帳データに基づく公開姓氏分布集計は,徳島県内の綴木姓分布を探索する補助資料に限って用いる([55]).原電話帳の版・調査時点,世帯と個人の集計単位,非掲載者及び推計手順を本稿で照合していないため,旧稿の「約10人」又は人口比順位を系譜の根拠に採用しない.分布集計と町誌の家伝を組み合わせても,各世帯の血縁,赤松高瀬からの分出,又は門司との関係は導けない.個人の氏名・住所の新たな一覧は作成しない.

6.1.5 佐竹・徳島資料を併せた到達点

佐竹系図の氏称記事と徳島町誌の分出家伝は,門司以外にも綴木の記録があることを示す.一方,1993年の系図と1973年の町誌は後代刊行物であり,対象人物や家伝の年代を刊年と混同しない.昭和以前の門司での姓使用は,第7章の1913年・1915年の同時代刊行資料によって別に確認される.

以上は山城・佐竹・徳島・門司を単一系譜へ結ぶ結論ではない.1973年先行系図と1993年版の関係は編纂史であり,赤松字高瀬の確認は地名史であり,分出家伝の採録は伝承史である.家系間の接続は,それぞれの人物・世代・移住・継承の資料が接続する範囲でのみ論じる.

6.2 門司関係史料の状態と江戸期身分

資料状態は表3に従う.本稿内包の除籍・地図画像は直接再読し,外部刊行物の版面確認は従前の記録を継承する.墓碑は著者観察資料として保持し,写真,四面全文,建立・追刻時期及び過去帳との対応について第三者検証が未了であることを明示する.帳簿の所在確認と,綴木家の掲載確認も区別する.

所在まで確認できた資料には,『門司郷土叢書』所収の小森江村・吉志村等の人別・宗門改帳,東京大学史料編纂所編『大日本近世史料 小倉藩人畜改帳二』所収の元和8年(1622)「豊前国規矩郡人畜改帳」門司部分がある([46][49]).北九州市立中央図書館の別の調査例は,1787年分限帳,1857年『小笠原藩侍帳』,1862年小倉藩士分限帳,1866年知行帳等の所蔵を示す([47]).熊本大学永青文庫目録にも「豊前之国ニ而之御侍帳」「豊前国中津附御侍帳」「豊前御侍帳」等が載る([48]).これらの所在情報は前稿から継承する.ただし,いずれも従前の照合では綴木姓の有無を本文で照合していないため,門司綴木家の確認史料には数えない.

特定の名簿に綴木姓が見当たらない場合も,対象年次,収録階層,別称・異表記及び欠本の影響を検討しなければならず,不掲載は郷士であったことの積極的証明にならない.「細川家に仕官していれば必ず熊本へ移住したはずである」「門司に残ったため郷士である」という推論は撤回する.同時代の身分記載が得られるまで,近世の身分は不明とし,居住が別史料で確認できる場合も「門司に居住した在地家系」と記すに留める.「近代には地主・地域有力者として確認される家系」とする場合も,土地台帳,登記,公職記録又は同時代名簿の該当記載と人物同定を要し,江戸期の家格へ遡及させない.

表7 門司綴木家関係史料の資料状態と歴史判断

資料群

資料状態

歴史判断

直接確認できる範囲

未確認事項・必要作業

除籍謄本

原画像確認/前稿翻刻継承

確認

熊蔵の生没・増之助との祖孫関係,安吉と増之助の父子関係

全葉・高次欄,編製・改製・除籍日,熊蔵と安吉の続柄

墓碑

著者観察資料

確認(観察報告)/判断不能(銘文の第三者検証・系譜)

明和5年~文久元年の年紀と法名があるとの著者観察報告

写真,四面全文,建立・再建・追刻・移転時点,過去帳,調査日

寺院記録・過去帳

未確認

判断不能

なし

墓碑人物の俗名,所属寺院,没年月日,親族接続

宗門改帳・人別帳

書誌のみ確認

判断不能

門司関係帳簿の所在

綴木姓の有無,居住,宗旨,世帯構成

村方・庄屋資料

未確認

判断不能

なし

役職,支配関係,家格,大庄屋・庄屋伝承

土地・登記・地籍

未確認

判断不能

なし

土地所有,相続,墓地・本籍・遊園地敷地の対応

分限帳・侍帳

書誌のみ確認

判断不能

複数年次の所蔵情報

綴木姓,対象階層,異表記,奉公,知行

細川・小笠原家資料

書誌のみ確認

判断不能

侍帳等の目録・所在

綴木姓,奉公,移住,役職,家格

近代公刊資料

原画像確認

確認

六郎の会社役員記載,住所中の「綴木内」,マツ子の採録,重平の家主記載,米市の市会議員記載

各人物と除籍系統との同定

1932年地図

原画像確認

確認

1932年11月15日刊冊子に名称を収録

名称成立年・開園年,敷地境界,所有,設置,経営,寄付

新聞・広告・市会記録

未確認

判断不能

なし

遊園地及び近代人物の活動実態

6.3 墓碑観察の範囲

著者は,庄司町墓地の綴木家関係とみられる墓碑について,明和5年から文久元年までの年紀と,「釋」を冠する4件の銘を観察したと報告する([42]).観察上の最古年紀は明和5年(1768)である.これは著者が石面でそう読んだという記録であり,綴木姓を記した1768年当時の墓石,又は門司綴木家の確定初見と同一視しない.各年紀が没年・建立年・再建年・追刻年のどれに当たるかは,四面の全文と石造物自体の状態を照合するまで未確定である.

浄土真宗では宗派用語として「戒名」ではなく「法名」を用いる([37]).「釋」を冠する形式は浄土真宗系の法名と整合するが,本願寺派の現行規程では僧侶だけでなく寺族・門徒にも同形式が授与される([38]).したがって,「釋」だけから派別,所属寺院,僧俗又は社会的身分を確定できない.現行規程を18―19世紀の門司へ遡及させることもできず,当該期の過去帳,宗門改帳及び寺檀関係資料との照合を要する.

個人を単位とする墓標の存在だけを高い身分の証拠とはしない.筑前秋月城下の近世墓研究も,形態・寸法等の複数属性を墓域単位で比較し,近世文書と照合して階層性を検討している([39]).また,近世初頭の庶民層による個人供養墓を報告する研究もある([40]).門司地域の同時期墓標群を母集団とする比較研究を本稿では確認できていないため,墓碑からの身分判断は行わない.

銘文年紀と墓石の造立時期は同一とは限らず,移転,再建,改修又は追刻の有無も不明である.墓碑の形状,法名,配置及び年代だけから,人物相互の親子関係,俗名,居住地又は社会的身分を確定しない.家紋についても,「調査した何基中何基で,どの面に確認したか」を記録できるまで,「全ての墓」「諸系統に共有」と一般化しない.

寺院過去帳は未確認である.法名の一致だけで墓碑人物を熊蔵その他へ同定せず,俗名,没年月日,年齢,住所,施主及び続柄を相互に照合する.同一の没年月日を複数の後代資料が写している場合も,独立した同時代記録が複数あるとは数えない.墓域のまとまりは調査単位にはなるが,その配置を親子関係へ読み替えない.

表8 墓碑再調査で記録すべき項目

項目

現稿にある情報

再調査時に記録すべき事項

墓碑ID・所在地

庄司町墓地との記載のみ

墓碑ごとの番号,墓地名,墓域内位置図,可能な範囲の座標,移転履歴

調査日・条件

未記録

調査年月日,調査者,天候・光線,撮影・採拓条件

建立年代

未確認.銘文年紀と建立年の同一性は不明

建立・再建・追刻の別と根拠

形式・寸法・材質

未記録

墓標形式,各部寸法,石材,加工痕,向き,保存状態

配置

未記録

墓域全体図,前後左右関係,台石・囲障・付属物

銘文・法名

明和5年~文久元年,「釋」を冠する4件との報告

全ての面の逐字翻刻,異体字,欠損,法名,俗名,年紀,建立者

家紋

「亀甲に吉」とする著者観察報告

写真,刻出位置,寸法,同一墓域内での反復と異同

6.4 除籍謄本の出典,翻刻及び公開範囲

出典は北九州市門司区長認証『除籍謄本』2019年4月1日交付,2葉,綴木家所蔵([41])である.本稿が直接再読したのは,人物欄の部分画像(図7)及び認証欄(図8)であり,全葉の再照合ではない.認証日は謄本交付時点を示し,戸籍の編製時点及び各事項の原記載日とは区別する.編製・改製・除籍時点は全葉確認の課題として残す.

図7の熊蔵欄には,出生として「天保弐年拾弐月弐拾九日生」,死亡として「明治四拾弐年七月九日死亡」とある.掲載画像では,天保2年12月29日生,明治42年(1909)7月9日没と読む.これは熊蔵の出生・死亡について戸籍が何を記録するかを示す直接資料である.一方,後代戸籍による出生の遡及記載であり,天保2年の同時代出生記録ではない.同日に綴木姓を公称したこと,出生地が門司であること又は当時の身分まではこの欄だけから導けない.旧暦の出生年月日は西暦日に換算しない.

図7では熊蔵の戸主との続柄「祖父」,戸主「綴木増之助」,増之助の出生「明治弐拾六年四月八日生」,父「亡 綴木安吉」及び前戸主との続柄「亡 綴木安吉 長男」を再確認できる.これに対し,高次の出生・「弟」・父母・「三男」の各欄は現在の図7・8には写らず,表9に前稿の翻刻として残す.熊蔵を増之助の祖父,安吉を増之助の父とする記載は確認できるが,熊蔵と安吉を父子とする線は両者間の続柄記載を別に確かめてから示す.

表9 除籍謄本の必要部分翻刻

図・位置

翻刻

標準表記

資料状態

図7・熊蔵欄

氏名

綴木 熊蔵

綴木熊蔵

原画像確認(第9稿再確認)

図7・熊蔵欄

出生

天保弐年拾弐月弐拾九日生

天保2年12月29日生

原画像確認(第9稿再確認)

図7・熊蔵欄

異動記載

明治四拾弐年七月九日死亡

明治42年7月9日没

原画像確認(第9稿再確認)

図7・熊蔵欄

戸主との続柄

祖父

熊蔵は戸主増之助の祖父

原画像確認(第9稿再確認)

図7・増之助欄

出生・父・前戸主との続柄

明治弐拾六年四月八日生/亡 綴木安吉/亡 綴木安吉 長男

明治26年4月8日生.安吉は増之助の父,増之助は安吉の長男

原画像確認(第9稿再確認)

前稿表9・高次欄

出生・戸主との続柄・父母との続柄

明治参拾弐年拾壱月拾日生/弟/亡 綴木安吉/トミ/三男

明治32年11月10日生.高次は増之助の弟,安吉の三男

前稿翻刻継承(現図に該当欄なし)

図7 北九州市門司区長認証『除籍謄本』(2019年4月1日交付)2葉の1として掲載された人物欄の部分画像.熊蔵・増之助及び増之助の父安吉の記載を第10稿で再読した.高次欄は切抜き外にある.本籍の詳細番地,発行番号及び研究対象外の後代親族欄は非掲載.

図7 北九州市門司区長認証『除籍謄本』(2019年4月1日交付)2葉の1として掲載された人物欄の部分画像.熊蔵・増之助及び増之助の父安吉の記載を第10稿で再読した.高次欄は切抜き外にある.本籍の詳細番地,発行番号及び研究対象外の後代親族欄は非掲載.

図8 同『除籍謄本』2葉の2にある認証欄.「この謄本は,除籍の原本と相違ないことを認証する。平成参拾壱年四月壱日 北九州市門司区長 上田伸一」と読める.研究対象外の親族欄及び発行番号は非掲載とした.

図8 同『除籍謄本』2葉の2にある認証欄.「この謄本は,除籍の原本と相違ないことを認証する。平成参拾壱年四月壱日 北九州市門司区長 上田伸一」と読める.研究対象外の親族欄及び発行番号は非掲載とした.

6.5 確認できる家族関係と未接続範囲

表10は,除籍が直接記す親族関係と,まだ接続していない資料を区別する.旧作業系図の墓碑年紀・家伝・除籍をまとめた親子線,姻族・婿養子関係及び出生順位は,該当原欄を再確認するまで再掲しない.同一戸籍が示す家族関係は家の継承を調べる直接資料であるが,記載された関係すべてが生物学的血縁を示すとは限らず,出生・入籍・養子・家督の各事項を分離する.

表10 門司綴木家の系譜・接続状態

区分

年代・範囲

現在の資料

直接確認できること

確認できないこと

中世の独立資料点

12世紀末の記事・13世紀の伝承

『吾妻鏡』『古今著聞集』等

「都筑平太」「つつきの平太経家」等の記載

門司,綴木姓及び門司綴木家との親族関係

系譜接続の空白(採用資料上)

中世資料点の後~熊蔵の除籍資料点

接続史料なし.途中に未検証の墓碑観察報告あり

現資料に世代連続がないこと

祖先の存在,居住地,移住・改姓の時期.中世人物を祖先とする起点自体も未証明

著者観察上の最古年紀

明和5年

庄司町墓地の墓碑観察報告

著者が明和5年と読んだという観察報告

銘文原文,建立時期,綴木姓,俗名,熊蔵との関係,身分

後代戸籍から遡及できる最古出生年月日

天保2年12月29日

除籍謄本画像

熊蔵の出生年月日として記録されること

天保2年当時の同時代出生記録であること,それ以前の系譜

史料で連続する範囲(続柄)

熊蔵・安吉・増之助.高次は前稿翻刻を継承

除籍謄本2葉

熊蔵=増之助の祖父,安吉=増之助の父,増之助=安吉の長男.高次の続柄は現画像に該当欄なし

熊蔵と安吉の直接の父子線,高次欄の再実見,墓碑・公刊人物・後代世代との接続

家伝にのみ残る範囲

伝承時期未提示

家伝があるとの本文記述

具体的に提示された場合の伝承内容

史実性.西遷・改姓・身分説を自動的に家伝へ転記しない

近代の独立資料点

1913~1937年等

会社要録,教会便覧,商工録,市勢要覧,人名録,市史等

六郎の役員記載,「綴木内」,マツ子,重平の家主記載,米市の市会議員表彰,遊園地名

除籍人物との同定,江戸期家格,遊園地の所有・経営

門司系譜外の比較資料

1234年,1706年,1802―1811年,1973年記録,現代分布

「綴木郡」の学術・刊行翻刻,佐竹家関係刊行系図,『相生町誌』,住所・姓氏分布資料

前近代文書由来翻刻の地名用例,系図上の氏称記事,徳島の分出家伝と地理的対応

門司家との親族関係,移住,改姓,徳島・佐竹家との関係

表10の「系譜接続の空白」は,その期間に家や祖先が存在しなかったという意味ではなく,本稿の資料で中世人物と熊蔵らを世代ごとに結べないことをいう.中世人物を門司綴木家の祖先とする起点自体も未証明である.また,家伝は伝承者・採録時点・内容が示された場合に記録し,史料を欠く推測を家伝へ付け替えない.

現資料は,後代の除籍が近世末出生者の熊蔵と門司に関係する家族の続柄を記録することを示す.墓地所在地,戸籍上の本籍,出生地,実際の居所及び土地所有は別の情報であり,近世から門司に連続居住したことを一括して確定しない.第7章の「家主」記載や市会議員記載も,各人の近代の属性として採用し,熊蔵系統の属性,又は藩士・郷士・地侍・庄屋等の近世身分へ遡及させない.

6.6 五つの年代・範囲を分離した到達点

門司家についての最古年・成立年・連続範囲は,表11の五項目に分ける.「最古」は本稿の調査対象と確認水準の限定を伴う語であり,存在開始の時点を意味しない.

表11 門司に関する五つの到達点

確認対象

年代又は範囲

根拠と限界

後代戸籍から遡及できる最古出生年月日

天保2年12月29日(旧暦)

熊蔵の出生記載.同時代出生記録,出生地及び当時の公称姓までは示さない.

著者が墓碑上で観察した最古年紀

明和5年(1768)

著者観察報告.写真・四面全文・建立及び追刻時点・過去帳照合は未了.

確認した同時代刊行物中の最古の氏名付き綴木姓人物

1913年の綴木六郎

会社要録の門司潮湯株式会社役員欄.姓の起源・門司来住年又は熊蔵との続柄は示さない.

綴木遊園地名の成立年

未確定.確認例は1932年11月15日刊の冊子

同冊81コマに名称,76コマに奥付.名称成立・開園・経営開始年とは別.

家族関係として連続確認できる範囲

熊蔵―増之助の祖孫関係,安吉―増之助の父子関係

同一除籍の掲載部分.高次は前稿翻刻を継承.熊蔵―安吉の直接の父子線と前後世代は再確認を要する.

後代戸籍が近世末出生者を記録することは積極的な証拠である.ただし,その人物の生年をそのまま門司における綴木姓の同時代初見へ繰り上げない.墓碑年紀,出生年月日,同時代刊年及び家族関係を一つの「家の始まり」にまとめない.

6.7 小括

徳島町誌における葛木姓世帯の綴木家からの分出家伝と公的地名の対応は,地域に即した調査の出発点を与える.門司では,後代除籍が記す熊蔵の生没,熊蔵と増之助の祖孫関係,安吉と増之助の父子関係を掲載画像で確認できる.これは家族記録としての積極的知見である.家の成立,墓碑との同定,高次欄の再読及び中世・他地域との血統的連続は未了であり,表11の五つの年代・範囲を一つの起源年へ集約しない.

7 近代門司の独立資料点

本章は,門司の綴木姓人物と施設名称を同時代刊行物・地域史ごとに検証する.従前の照合で照合された原文・位置情報を継承し,本稿内包の地図は再読する.同姓・同地域・同町丁目は人物同定の探索条件であり,親族関係の証拠を代用しない.

7.1 1932年地図の「綴木遊園地」

『門司市勢要覧』昭和7年度刊行の所収地図には,長谷付近に「綴木遊園地」とある([18],81コマ).同冊の奥付(76コマ)は昭和7年11月10日印刷,同月15日発行と記し,1932年刊行を確認できる.従前の照合は81コマの公開版面で図9の名称と周辺地名を再照合した.したがって,本稿確認資料では1932年11月15日刊の冊子にこの名称が収録されている.名称の成立年・命名日・開園年が1932年であるという意味ではない.

図9の「長谷」は右から左へ読む横書き地名である.地図上の名称配置は位置をおおよそ示すが,施設の敷地境界や地番を確定しない.同図は所有者,設置者,経営者,私設・公設の別,開廃時点,命名理由及び寄付の有無を記さない.したがって,名称,土地所有,設置・経営,寄付・開放及び地域への効果を別々の命題として扱う.

「綴木家が土地を所有・経営し,地域貢献のために開放した」との一括した説明は採用しない.土地台帳・旧登記・地籍図で対象地と各時点の権利者を,新聞・広告・営業資料で施設名と運営者を,寄付又は市への移管文書で行為者・対象地・時点を確かめる必要がある.角川『日本地名大辞典 40 福岡県』に由来するという開園・植栽・私設公園の説明も,該当項目・頁・原文の再照合前には採用しない.「綴木公園」等の別称との同一性も,名称の類似だけで補わない.

図9 『門司市勢要覧』昭和7年度刊行,所収「門司新市街図」として前稿に掲載された「綴木遊園地」部分.従前の照合で国立国会図書館デジタルコレクション PID 1448992,81コマの版面と照合.左:周辺,右:拡大.同冊奥付(76コマ)は1932年11月15日発行.名称と位置の資料であり,成立年,敷地境界及び所有・経営主体は示さない.

図9 『門司市勢要覧』昭和7年度刊行,所収「門司新市街図」として前稿に掲載された「綴木遊園地」部分.従前の照合で国立国会図書館デジタルコレクション PID 1448992,81コマの版面と照合.左:周辺,右:拡大.同冊奥付(76コマ)は1932年11月15日発行.名称と位置の資料であり,成立年,敷地境界及び所有・経営主体は示さない.

7.2 1913年以降の綴木姓人物

『帝国銀行会社要録:附・職員録』大正2年(2版)の福岡県会社「も」部35頁(761コマ)には,門司潮湯株式会社の所在地「門司市觀帆貳丁目」,設立「大正元年九月」及び「取締役 綴木六郎」がある([43]).同頁の会社設立年月は法人についての記載であり,六郎が設立時から在任したことを自動的には示さない.本稿が該当版面を確認した同時代刊行物では,氏名付きの門司の綴木姓人物は1913年の六郎が最古である.これは調査資料中の初見であり,綴木姓又は門司綴木家の成立年ではない.

『教会便覧』1巻159頁(84コマ)の「日本浸禮教會教役者一覽」では,荒瀬鶴喜の住所欄に「門司市楠町六丁目綴木内」とある([44]).記録される教役者本人は荒瀬であり,「綴木内」は住所の取次先・居所に付く姓表記である.綴木姓の人物を牧師としたり,綴木家全体の宗旨又は家人の氏名・続柄を特定したりしない.1915年は利用巻の刊年として扱い,この年に家の成立を置かない.

『帝国商工録』昭和6年版九州版の福岡県「和洋料理カフェー・貸席待合」欄には,「綴木マツ子」「門司市日出町一丁目」がある([45],91コマ左頁).印刷頁は167頁であり,前稿の166頁は隣接する右頁の番号であったため訂正する.当該業種欄への収録は確認できるが,その複合見出しから個別の営業形態,屋号,土地所有又は経営規模までは特定しない.六郎,1915年の「綴木内」及びマツ子相互の親族関係も未確認である.

7.3 綴木重平・綴木政夫

『日本紳士録』41版(1937年)の福岡県233頁(896コマ左頁)には,綴木重平と綴木政夫が並ぶ([19]).重平には職業等として「家主」,住所として「門司市庄司東谷,六丁目」,政夫にも同じ町丁目が記される.したがって,重平を同書が家主として採録したことと,両名の掲載住所が町丁目単位で一致することは直接確認できる.「家主」を直ちに「大地主」へ置き換えず,政夫にも同じ職業を補わない.家主記載は重要な近代の属性であるが,所有する土地・家屋の筆数や面積,地域的影響力及び江戸期家格を示すものではない.

欄外凡例は「●ハ所得税」「×ハ営業収益税」「▲ハ電話」とする.重平の「●七二」,政夫の「●五三」は掲載所得税額72円・53円,重平の「▲門司四一五」は電話表示であり,所得額・資産額に読み替えない.巻頭凡例1―2頁(4―5コマ)は,内外名士及び第三種所得税50円以上又は営業収益税70円以上の納税者等を収録対象とし,税額は原則昭和11年度,一部地方都市は昭和10年度と説明する.各項の適用年度は個別に確定できない.この編集上の採録条件は確認できるが,両名を地域社会の名望家と評価するには,社会的役割を示す別の史料が必要である.

表12 1937年『日本紳士録』の掲載事項

氏名

職業等・住所

数値・記号の意味

綴木重平

家主/門司市庄司東谷,六丁目

●七二=所得税72円.▲門司四一五=電話表示.

綴木政夫

職業等の明記なし/門司市庄司東谷,六丁目

●五三=所得税53円.同項に電話表示なし.

同じ町丁目の記載は同居・同一敷地・親子・兄弟の確定には足りず,除籍人物との同定にも戸籍,住所異動又は相続記録を要する.各数値は同書の掲載値であり,原課税台帳との照合は未了である.

7.4 綴木米市に関する記録

『門司市史』第13章「人物」の839―840頁(453―454コマ)は,昭和4年(1929)4月1日の市制30年記念における感謝状・褒状・表彰状の受領者を掲げる.その「二 感謝狀ノ部」の続きにある「前項以外ノ市會議員」の一覧に「綴木米市」が載る([20]).従前の照合は見出しと氏名欄を連続して確認した.米市を市会議員として記録する市の刊行物が存在することは直接確認でき,二資料の一致だけから推定するという前稿の評価を改める.ただし,選挙記録,任期の開始・終了日,議案・発言・採決及び具体的政策への関与は,この表彰一覧だけでは確定しない.

『全逓労働運動前史』上巻(1965年)については,米市を市会議員かつ政治結社の党首とする前稿の確認記録があるが,本稿の本文入力には該当版面がなく,掲載頁・全文・底拠を再照合できていない([25]).前稿が挙げる1929年の門司局集配人争議という事件の同定を含め,調停の主体,交渉相手,依頼経路及び結果は再確認の課題とする.争議への言及,仲介の実施,その成否及び労働者側への支持は別の命題であり,市会議員であったことから補わない.後代の労働運動史と市史が互いに依拠していないかも未確認であり,独立した二つの同時代証言とは数えない.

1930年の『武道寳鑒』と『昭和天覧試合 武道宝鑑』は,書誌上の重複に注意を要する.国立国会図書館の書誌は後者を『昭和天覧試合』附録462頁の巻として扱い,昭和館の所蔵目録も「昭和天覧試合 附録/武道宝鑑」と記す([21][22][85]).原表紙・奥付・該当名簿を対照するまで,二つの独立史料に数えない.「綴木米市」「講四段」という転記は前稿の確認記録として継承するが,従前の照合ではその氏名欄と略号凡例の版面を再閲覧できていない.従って,「講」の授与団体,武道種目及び当時の段位制度は確定せず,師範・師範格という資格,又は現在の段位との換算を付加しない.1934年刊の同名書とも区別する.

『官報』第3049号(1922年9月28日)は,公開画像の本紙及び号外を再照合した([23]).ただし,「綴木米市」に対応する氏名欄・頁及び栄典の区分を従前の照合でも特定できていない.号外に多数の辞令があること自体を米市の叙勲の証拠とせず,未特定を「掲載なし」又は「叙勲なし」という否定にも転換しない.市史の市制記念の感謝状と国の栄典は別制度として扱い,官報の該当本文,対象者の属性,発令日,勲等・章及び付記を確認してから記述する.

警眼社編『警察年鑑』昭和5年版(1930年)352頁(190コマ右頁)の福岡県「高等ニ關する事項(昭和三年十二月末日現在)」では,「各種團體」の「思想關係」欄に「大日本國柱軍門司本部,綴木組」と列記される([26]).刊年1930年と記録対象時点1928年末を区別する.この欄には米市の氏名・役職がなく,読点で並ぶ二名称の組織上の関係も,列記だけから確定できない.綴木組を一方の別称・下部組織と決めたり,米市をその指導者としたりしない.同書は警眼社の編纂刊行物であり,警察署作成の原簿又は個人の活動記録そのものとは区別する.

『日本之精華』(1914年)の「綴木米一」と尺八に関する記述は,書誌の所在を確認できるが,該当頁と本文を従前の照合でも再照合できていない([24]).「米一」と「米市」の字形を任意に直さず,住所,職業,年齢,活動時点及び明示的な改名・別名記事を照合するまで同一人物としない.同様に,市史,武道名簿,政治結社及び争議記録の各「綴木米市」を一人の人物史へ統合するには,氏名以外の対応属性を記録する必要がある.熊蔵系統との親族関係及び戦後の活動も未確認である.

7.5 小括

1913年の会社役員綴木六郎,1915年の住所表記「綴木内」,1931年の商工録掲載者マツ子,1932年刊冊子の「綴木遊園地」,1937年の家主重平及び同町丁目の政夫を,資料ごとに確認できる.市史は米市を1929年の記念表彰一覧に市会議員として記す.これらは門司地域史の積極的な知見であるが,相互の親族関係と除籍系統への接続を証明するものではない.名望家・大地主・師範格・叙勲及び労働争議への貢献という評価は,それぞれに対応する直接記載の範囲を越えて付加しない.

8 地域間の血統的連続と接続仮説――命題P6

命題P6は,山城・武蔵・佐竹・徳島・門司の資料点を,人物を連続させる所領文書,系図,奉公記録,戸籍的資料等で接続できるかを問う.移動,奉公,養子・相続による家の継承及び血縁は同一ではない.地名・表記の対応は調査範囲を絞る手掛かりとなるが,個人移動の確認だけで後代までの血統を立証したとはしない.

8.1 山城から武蔵への移動

山城から武蔵への移動と,武蔵から九州・門司への移動は,それぞれ独立した検証仮説である.一方の接続が見つかっても,他方又は両者を通した系譜は自動的に成立しない.名称の類似を起点に探索することは妥当だが,移動主体・出発地・到着地・時期を記録に結び付けるまで,移住が起きたとする本文叙述へ進めない.

山城国綴喜郡の地名と武蔵国都筑郡・都筑平太との接続には,両地域で同一人物又は継承関係を示す所領文書,寺社・荘園文書,系図,奉公・相続記録等を要する.現在の採用史料ではその移動主体と経路を確定できない.ただし,山城の郡名と1926年刊本の冠称「綴喜」の一致,説話の武蔵居住と「都筑」との地理的対応は,異表記・地名冠称を横断する検索仮説を与える.証拠の欠落を理由に,両地域・諸名称が相互に無関係であると証明されたことにはしない.

8.2 平治の乱・承久の乱と改姓

佐藤春夫への「平治の乱で綴喜一族が都を追放された」という説の帰属は,該当原文を特定できないため撤回する.経家の説話を1159年の追放記録へ読み替える根拠もない.また,1234年付文書の学術翻刻にある郡名「綴木」は,承久の乱後の地名表記の用例であって,1221年を契機とする個人の改姓記録ではない.改姓又は移動を検証するには,前後の同一人物,旧称・新称,時期及び事情を示す記録を要する.どちらの乱も,年代が先行するという理由だけで名称変更の原因としない.

8.3 壇ノ浦・元寇と門司定着

『古今著聞集』の入海死には年・場所・合戦名がなく,壇ノ浦又は門司への比定はできない.さらに,経家と1185年10月・1190年11月の都筑平太を同一人物とする仮説を採るなら,経家が1185年3月の壇ノ浦で死亡したという仮説とは両立しない.これは二つの仮説の条件付きの矛盾であり,実際の没年や別人性を確定するものではない.1184年一ノ谷の綴喜党も,経家又は親族と同定できる記事ではなく,入海死・西遷の間を埋める資料にはならない.

石野の継承OCR転記の元寇文は小弐父子とその祖とされる武藤氏を対象とし,経家又は後裔の従軍・移住の根拠にならない(第5.6節).武蔵から九州への奉公・所領獲得と,九州内から門司への居住・家族定着も段階を分けて検証する.必要なのは人物名・所領・主家・相続を連続させる文書と,門司側の寺院・村方・宗門人別・戸籍的資料である.交通路や戦場との近さは探索地域を設定する補助条件になるが,特定の移住者を証明しない.壇ノ浦後・元寇後の移住時期はいずれも未確定で,他の時期も排除できない.

8.4 佐竹・徳島・門司の関係

佐竹家関係刊行系図の「綴木氏」,『相生町誌』の赤松高瀬分出家伝及び門司の綴木姓は,同じ字形を共有する.しかし,佐竹家から赤松高瀬へ,又は赤松高瀬から門司へ移った人物,年代,続柄,所領,奉公又は相続を示す資料は確認できない.同字形と地域分布から系譜を構成することはできず,三者の関係は検証仮説に留まる.

8.5 本稿採用資料上の系譜接続空白

中世の人物・党名を記す資料と,熊蔵を記す除籍資料点との間には,世代ごとの親族関係を示す採用資料がない.これは,確立した系譜の途中数代が欠けるという意味ではなく,中世人物を門司綴木家の祖先とする起点自体が未証明であることを含む.「本稿採用資料上の系譜接続空白」は,その期間に人物又は家が存在しなかったことを意味しない.

特定の分限帳又は侍帳に綴木姓を見いだせない場合も,対象年次,収録階層,別称・異表記及び欠本の影響を検討しなければならない.不掲載は非藩士の確定にも,郷士・地侍であったことの積極的証明にもならない.

8.6 横浜市都筑区の区名選定と現代的理念の独立検証

8.6.1 資料の時点と検証対象

本節は,1993年の区名選定から1994年の区発足までを扱う.主な根拠は,横浜市市民局行政区再編成担当が1995年3月に編集・発行した『横浜市行政区再編成の記録』である.27―32頁に調査・公募・審議・条例決定の経過,34―35頁に1993年10月26日付「港北区及び緑区の再編成に伴う新区の名称の選定について(報告)」全文,37―38頁に応募状況と応募要領,68頁に当時の広報紙を収める([71]).同時点の公表理由の検証には,後年のホームページや統計要覧に先立つこの報告書を用いる.1995年刊行という利用媒体の年代と,収録文書の1993年という作成時点を区別する.

8.6.2 基準調査,一般公募,委員会選定及び条例決定

1993年5月の住民アンケートは,港北・緑両区の区民2,000人を対象とし,望ましい区名の基準や再編成答申への意見を尋ねた郵送調査である.2,000人は調査対象者数であり,有効回答者数ではない.特定の既定候補から最終区名を選ぶ投票とも異なる.結果は6月25日の第3回区名選定委員会に報告され,区のイメージ,簡潔さ・語調・親しみやすさ,他区名との紛らわしさの回避,狭い地域だけを指す呼称の回避が選定基準とされた.同委員会は応募件数第1位を自動採択しない方針も定めた([71]27,31,35頁).

8月1日から31日までの一般公募は,横浜市内在住・在勤・在学者を対象とし,新設予定のC区・D区の名称を自由に記入して応募する手続であった.応募用紙には命名理由欄がなく,公開された応募要領の指定記載事項も区名,住所,氏名,性別,年齢,電話番号等であり,命名理由は求めていない.C区・D区のどちらか一方だけの応募も認められ,応募はがきを郵便ポスト又は市内各所の応募箱へ入れる方式である([71]28―29,38頁).

応募状況表の「応募箱への投票」3,197通は,自由記入の応募はがきを箱へ投函した受付方法別の数である([71]37頁).C区・D区を合わせた公募全体の数であり,都筑という名称への票数ではない.基準アンケート,自由公募及び委員会内の最終投票を,別の手続として扱う.

表13 都筑区名選定・法的決定・区発足の手続

時期 実施主体・対象 手続・結果 [71]の印刷頁
1993年5月 港北・緑区民2,000人を調査対象 望ましい区名基準等の郵送アンケート 27,35
6月25日 第3回区名選定委員会 調査結果を踏まえ基本方針を決定 31,35
8月1―31日 横浜市内在住・在勤・在学者 C区・D区の区名を自由応募 27―29,38
9月17日 第2回小委員会 応募上位案と委員推薦案から18案 31,35
9月24日 第4回区名選定委員会 D区を9候補に絞り,再度付託 31,35
10月12日 第3回D区小委員会 港京・都筑・光の3候補に絞る 31,35
10月26日 第5回区名選定委員会 委員会内投票で都筑が最多得票 31
同日 選定委員会会長から市長へ 同日付の選定報告書を提出 32,34―35
12月3日 横浜市から市会へ 区名等を定める条例改正案を提案 32
12月10日/15日 市会議決/市長公布 全会一致で可決/条例第71号公布 32
1994年11月6日 横浜市 行政区再編成を実施し,都筑区発足 [65]も参照

9候補は,曙,港京,港陽,都筑,望,東,光,陽光,若葉である.このうち港京・都筑・光へ絞り込まれ,10月26日の第5回区名選定委員会で,推薦意見の表明を経て委員会内の投票が行われた.都筑はその投票で最多得票となり,最終選定名として了承された([71]31,35,68頁).この9候補は応募件数の上位9件をそのまま残したものではない.最終投票をしたのは区名選定委員である.

委員会の選定結果は10月26日付報告書として市長へ提出され,市はその結果を条例改正案へ反映した.12月3日の市会提案,12月10日の全会一致による可決,12月15日の条例第71号公布を経て区名が確定し,1994年11月6日に区が発足した([71]32頁,[65]).選定主体は委員会,法的決定主体は条例を議決した市会であり,市長による公布及び翌年の施行・発足は別の段階である.

資料校訂上の注記:[71]27頁は第3回区名選定委員会を「平成4年6月25日」と印刷する.しかし,同書31頁の委員会日程は平成5年6月25日であり,同書34―35頁の1993年付報告書とも一致する.本稿は前者を年次の誤記と判断し,1993年6月25日を採用する.

8.6.3 D区の応募件数と順位

公募全体の応募総数は21,587通,うち有効21,083通,無効504通である.C区・D区の両方を一通で応募できたため,名称の応募件数は延べ35,859件となり,C区18,995件とD区16,864件に分かれる.D区の名称は3,067種類である([71]30,35,37頁).「通」は応募はがき等の数,「件」は区ごとの名称の応募数,「種類」は異なる名称の数であり,いずれもそのまま独立した応募者数又は特定方式の投票参加者数に読み替えない.

表14 D区名応募件数の上位10位([71]30頁のD区欄)

順位 名称 応募件数
1 687
2 港京 681
3 陽光 571
4 514
5 若葉 487
6 平成 390
7 富士見 374
8 都筑 316
9 308
10 247

都筑の316件は第8位であり,公募最多の名称ではない.公募の順位と,委員会内投票での最多得票を混同しない.本稿の表14は原表のD区欄から転記した.隣接するC区欄には,例えば光699件,若葉716件,桜340件とあるが,それらはD区の光687件,若葉487件,桜247件とは別の集計である.別地区の名称・数値を誤結合したウェブ上の表を,D区の応募順位表として採用しない.

8.6.4 選定報告書の三理由と「都を筑く」の性格

10月26日付報告書の都筑区選定理由は,第一に,新区全体に関わり住民に定着している歴史的地名を将来へ継承すること,第二に,奈良時代からの地名にちなみ新たな都市づくりが住民の総意で進むことへの願い,第三に,応募数上位にあり市民から広く支持されたとの評価,という順序である([71]34頁).同時期の『広報よこはま・D区準備号』1993年12月号は,旧都筑郡の歴史を説明したうえでその名称を継承する願いを記す(同68頁所収).

第二理由の「都を筑(きず)く」は,既存地名「都筑」の漢字に現在・将来の意味を重ねた委員会の理念説明であり,掛詞としての性格をもつ.文末は「願って」であり,「区民の総意」は今後の街づくりに期待する状態である.住民全員の意思を調査によって確定したとの報告でも,応募者から収集した命名理由の集計でもない.また,古代に郡名が生まれた語源を実証する文章でもない.

「都を筑く」という理念説明は,1993年10月26日付報告書と同年12月の広報紙に既に記されている.説明の資料上の主体は選定委員会であり,区名選定と同時点の理念として位置付けられる.最初の着想者・起草者,又は個々の公募参加者がこの理念を抱いたかどうかは未確定である.

8.6.5 旧名の認識と住民・行政の関係

選定報告書は歴史的地名の継承を第一理由に掲げ,行政による旧名認識を確認できる.横浜市立都筑図書館の案内によれば,市計画局委託の港北ニュータウン歴史民俗調査は1974年から延べ11年間行われ,成果は1989年刊『都筑の民俗』にまとめられた([72]).都筑センターも1984年11月7日に開設されている([73]).これらは区名選定前の調査と名称使用を示すが,全職員の知識を一括して測る資料ではない.

住民側の旧名認識について,都筑という名称の応募316件と,報告書の住民への定着評価は,公募参加者・地域社会にその名称が認識されていたことの間接証拠となる.しかし,316件を316人のD区住民と同一視することはできず,個々の応募者が旧都筑郡を知っていたか,歴史継承を意図したか,字義や将来像を重視したかは資料から判定不能である.D区名への応募全体にはD区外からの応募も含まれるが,公開集計は都筑316件だけの居住地・動機別内訳を示さない([71]37頁).報告書の定着評価も,それ自体を独立した認知度調査の数値とは扱わない.

8.6.6 本節の結論と古代語源論からの分離

旧都筑郡名の歴史的継承が第一の選定理由であり,「都を筑く」は選定委員会が同時点で加えた補助的な理念説明であった.ここで「第一」は報告書の理由の配列と同時期の説明に即した位置付けであり,各委員の判断要因の重みを数量化したものではない.本件は,歴史的名称の継承と現代的な意味付与が同じ選定過程で併存した例として理解できる.

丹羽辞典の1994年刊行は1993年の区名選定後である.同辞典の築城・都城に関する語源解釈を,委員会の選定動機の独立した事前証拠には用いない.また,従前に確認した選定報告書・経過記事に石野瑛の著作への参照はなく,「石野の主張が区名決定に反映された」という従来稿の積極的主張も維持しない.現代の区名選定,古代武蔵国都筑郡の語源,丹羽の辞書的分類及び綴木家の系譜は,それぞれ別の検証対象である.本節の成果を山城から武蔵への移動又は門司家との血統的連続(P6)の根拠に転用しない.

8.7 検証可能な接続課題

接続の成否を個別に判定できるよう,次の課題を設定する.

  1. 山城国綴喜郡と武蔵国都筑郡を結ぶ中世以前の人物・所領文書があるか.

  2. 綴喜平太経家と都筑平太を同定する諱・親族・所領・別名記録はあるか.1185年・1190年の対象条を諸本で対校し,1195年の目次情報も出典本文へ戻せるか.

  3. 綴喜党と綴党の名称対応,構成員・所領の継続,経家の所属を各別に示す記録はあるか.太郎・五郎の兄弟関係を経家や党全体へ広げずに照合できるか.

  4. 武蔵から九州へ移った人物を恩賞・所領・奉公・系図で特定し,その人物又は継承者を門司の居住・寺院・戸籍的資料へ連続させられるか.

  5. 天福2年付文書を収める学術翻刻上の郡名「綴木」と,近世末の人物を記す佐竹家関係系図上の氏称例との間に,「綴木」を個人又は家の名称として用いる13世紀から18世紀の同時代文書があるか.

  6. 門司又は周辺で綴木姓を確認できる最古の宗門・土地・寺院資料は何年か.

  7. 墓碑上の法名人物と除籍謄本の熊蔵系統を過去帳又は相続文書で接続できるか.

  8. 1993年系図の千三郎条の頁・親見出しと1973年版の対応記事を特定し,底本家譜,生前公称及び継承を示す同時代記録へ遡れるか.

  9. 『相生町誌』の凡例・原調査票・聞取記録を確定し,赤松高瀬(1973年当時は日和佐町)と相生町域の各家を戸籍・除籍,過去帳,土地・移住資料で接続できるか.門司との接続は,この地域内調査とは別に立証できるか.

8.8 小括

山城から武蔵,武蔵から九州・門司,佐竹から徳島,徳島から門司,または中世人物から門司家へ至る血統的連続を立証する接続資料は確認できない.したがって命題P6の歴史的真偽は判断不能であり,従来稿の肯定的な直接系譜説は撤回する.表記差・地理的対応・年代的重なりは検索仮説として保持する.接続が証明できないことは,相互に無関係であること又は血統的不連続が証明されたことではない.他方,都筑区名については,公募・委員会選定・条例決定の過程と,歴史的継承を第一理由とする同時点の説明を確認できる.これは現代名称史の積極的成果であり,P6の判断不能とは別に保持する.

9 考察

9.1 六命題の到達点

古代地域(P1),字形使用(P2),綴喜郡の異表記(P3),刊行系図上の人物氏称(P4)及び除籍の明示的続柄(P5)は,媒体と対象を限定して確認できる.菊池の意図的再構成は,地理・反復・使い分けに基づく蓋然的推定である.古代原字と世襲姓の確認,地域間の血統的連続(P6)は別の問題であり,現資料では未証明である.都筑区名の旧名継承と補助的理念は,地域間系譜とは独立した名称史の成果となる.

9.2 「綴木」の使用と資料間の独立性

1234年・1706年付文書由来の翻刻上の郡名,松岡・菊池の用字,丹羽の関連姓氏分類,佐竹系図の氏称及び徳島町誌の分出家伝は,性格の異なる「綴木」の用例を与える.さらに,1913年の同時代刊行資料に門司の綴木六郎が記されるため,昭和期門司に始まる突発的な字形・姓の創出という説明は採れない.前近代年紀,後代刊年及び同時代の姓使用を区別したうえで,複数の資料領域にわたる名称史を構成できる.

資料類型や刊年が異なっていても,証言の独立性は自動的には得られない.1234年寄進状の二翻刻は一通の文書に依存し,1993年の佐竹七家系図は1973年先行版の付録を増補したと説明される.千三郎条そのものの継承経路は未確認であり,両版を二つの独立した氏称証拠と数えない.辞典・系図・町誌の個別項目間の参照関係も未確定である.公的地名資料は伝承の地理的対応を確かめるが,家伝の血縁内容を独立に証言するものではない.

9.3 字形の先行例が血統の先行例ではない理由

地名「綴木郡」,菊池の再構成表記,系図上の氏称,町誌の分出家伝及び近代の世襲姓は,対象も成立時点も異なる.字形の先行例は,後の命名で既存名称が参照された可能性を検討する根拠となるが,特定家の血統の先行例ではない.菊池の意図的再構成の蓋然性を認めることと,古代綴木姓・古代原字を未確認とすることは両立する.家系の接続には人物・継承者・親族・移住・所領等を結ぶ記録が必要である.

9.4 限定的不見と負の証拠

本稿が確認した古代主要本文の範囲で氏族名・名字「綴木」を見いだせないことは,調査対象を限定した不見である.社会全体の不存在へ一般化せず,古代原字の確認も独立の調査課題とする.名簿の未照合又は不掲載を,非藩士の確定や郷士等の身分の肯定に置き換えない.また,一伝本の一箇所の不見,著作の該当頁未特定,及び作品全体の不在証明を区別する.

9.5 門司綴木家研究の独立した価値と今後の調査

古代・中世との接続が未証明であっても,門司の研究対象は具体的である.従前の照合では,除籍に記された熊蔵の生没と増之助との続柄,同時代の会社役員・住所取次先・商工録掲載者,紳士録の家主記載,市史の市会議員表彰及び地図名称を資料別に位置付けた.単なる氏名の列挙から,職業等の記載,記録時点及び史料の作成目的を伴う地域史資料へ精度を上げられる.家主・議員等の確認を過小評価する必要はないが,未同定の人物の活動を一家の実績へ合算しない.

門司側の優先調査は,第一に除籍の全葉と前後戸籍を用いた続柄・異動の接続,第二に墓碑ごとの写真・四面全文・建立及び追刻時点と過去帳の対応,第三に同時代名簿・新聞・市会原簿の住所と活動時点の照合,第四に遊園地敷地の地番・権利者・運営者の特定である.宗門・人別帳と村方・庄屋記録は,近世身分や地域内居住の直接記載を探す資料として用いる.確認できない氏名・続柄・年次を推測で埋めず,付表9の各未了項目に対応する証拠を追加する.

表記史側では,1234年・1706年原文書,佐竹系図の原資料及び近世以前の人物・家に「綴木」を付す原文の探索を継続する.中世史料の伝本別の原字,経家と都筑平太の所領・親族・別名記事及び徳島町誌の原調査記録の確認も,従前稿の課題として保持する.これらの確認結果を,門司側の世代接続の代わりにはしない.

佐竹側では千三郎条の全頁から1973年先行系図・底本家譜・同時代記録へ遡り,徳島側では町誌の編纂資料と相生・赤松高瀬両地域の世代資料をそれぞれ確認する(付表8).両調査の着手点は具体化したが,系図の該当頁,町誌の聞取主体及び関係家資料の現所在はなお未確定である.

中世集団史では,武蔵国都筑郡への比定,綴喜党・綴党の対応,経家の所属及び小弐・武藤氏の記事を分けて追う.『緑区史』の目次を原史料へ戻し,石野・『昭島市史』その他の解説の引用元と相互依存を確かめる.同じ『古今著聞集』を反復する近代説明を,独立した複数の中世証拠として数えない.

9.6 歴史的名称の継承と現代的意味付与

都筑区名では,旧都筑郡名の歴史的継承が主理由であり,「都を筑く」という都市づくりの願望は1993年の選定委員会が同時点で添えた補助的理念であった.この意味付与は,古代郡名の語源,公募参加者個々の動機及び各職員の知識とは別である.命名対象,説明の作成時点,公表主体及び手続を揃えて記述することにより,歴史的名称の継承と現代的な理念の併存を示せる.

9.7 小括

本稿の成果は,古代ツツキ地域の存在,前近代文書由来の「綴木」表記,菊池の意図的再構成の蓋然性,氏称・家伝・門司地域記録,及び都筑区名選定の史料的根拠を整理した点にある.古代綴木姓・古代原字と地域間血統は未確認・未証明として区別する.白味噌雑煮・餅・家紋は比較資料として残し,分布の排他性,採用時期及び伝播経路を欠く段階で山城由来の証明には用いない.

10 結論

第一に,古代山代・山背国南部にツツキ地域が存在したことは,記紀の地名・宮号と行政地名資料から確認できる.山代・山背という用字差と794年の山城国への改称は区別し,地域的対応を現行郡界の一致又は個々の宮跡の厳密比定へ広げない.

第二に,「綴木」字形は1234年付寄進状及び1706年付口上書に由来する刊行翻刻に,綴喜郡を指す郡名表記として現れる.これは積極的に採用できる前近代文書由来の用例である.1234年寄進状の二翻刻は同一文書一通として数え,原文書の字形確認と刊本間の全文対校は未了とする.さらに1913年の門司の同時代資料に綴木姓人物を確認できるため,「綴木」を昭和期門司の突発的創出として説明することはできない.

第三に,菊池山哉の「山代綴木」は古代ツツキ地域の地理と整合し,本文・系図での反復と「綴喜」「筒木」等との使い分けから,著者又は編集段階の意図的再構成である蓋然性が高い.単発のミスタイプとして排除しない.この判断は本文配置からの推論であり,字形選択の主体・原稿上の意図を直接確認したものではない.松岡の用字原因は未決定とし,両著者の扱いを一律にしない.

第四に,古代綴木姓の存在は本稿の主張ではなく,古代の原字としての「綴木」も未確認である.後代刊本・再構成表記・辞典分類を古代原文へ遡及させない.一方,限定された不見から古代社会全体の不存在を証明したともいえない.古代地域,前近代翻刻の字形,氏称,世襲姓及び血統の継承は,各別の証明を要する.

第五に,佐竹家関係系図の「千三郎 綴木氏を称」,徳島の『相生町誌』に採録された赤松高瀬家からの分出家伝,及び門司の除籍・地域刊行資料は,氏称史・伝承史・家族史・地域史の重要な知見を与える.丹羽辞典も綴木を綴喜の「おもな関連姓氏」として分類する.門司では熊蔵の生没・明示的続柄,1913年以降の同姓人物,1932年刊地図の施設名称,重平の家主記載及び米市の市会議員表彰を,それぞれの資料が示す範囲で採用できる.ただし,佐竹・徳島・門司相互の血統的連続は未証明であり,中世の経家・都筑平太・党名から門司へも接続しない.白味噌雑煮,餅の形状及び「亀甲に吉」は民俗・意匠の比較資料として残すが,分布の排他性,採用時期及び伝播経路が未確認であるため,山城由来又は血統継承の証明には用いない.

第六に,横浜市都筑区名の主たる選定理由は旧都筑郡名の歴史的継承であり,「都を筑く」は1993年の選定委員会による補助的理念である.一般公募,委員会内投票,同年12月の条例議決・公布及び1994年11月6日の区発足を区別する.応募件数を個別の応募動機や住民全員の意思へ読み替えず,現代の名称選定を古代語源又は地域間系譜の証拠にしない.

補論A 白味噌雑煮と「亀甲に吉」――系譜証拠ではない比較資料

本補論は,綴木家の家習・家紋と京都の習俗・意匠の比較可能性を検討する.白味噌雑煮,餅の形状及び亀甲意匠は,民俗・意匠資料として保存する.分布の排他性,採用時期及び伝播経路を確認していないため,山城由来又は血統継承を示す証拠には用いない.

A.1 白味噌雑煮と餅の形状

第9稿から継承する確認記録では,長田弘「白味噌のお雑煮」は京都の白味噌雑煮と宮中・公家文化との関係を論じ,1955年の「京風白味噌雑煮」は丸餅又は六角形に成形した餅を調理例として挙げる([27][28]).第10稿の入力には両記事の版面がなく,該当頁・原文を直接再確認していない.これらは文献比較の項目として保持し,全国的分布,起源,六角餅の普及率又は伝播経路の確定には用いない.

A.2 亀甲文様

『和鏡』『郷土の文化財 第15巻』『能装束 下巻』については,鏡背・宗教施設・装束の亀甲系意匠を比較した従前の記録を継承する([29][31]).該当頁・図版番号と原画像は本稿では再確認していない.一般の亀甲文様と「亀甲に吉」は構成要素を共有するが同一意匠ではなく,京都への固有性や同一伝播系統をこの比較から導けない.

A.3 家習・家紋との比較

著者の実見及び家族の伝承によれば,著者が知る綴木家の世帯では白味噌仕立ての雑煮を用い,現在は餅を六角形に成形していない.家紋は「亀甲に吉」と伝えられ,庄司町墓地の複数墓石にも対応する意匠があるとの観察報告がある.現在の家習,家紋の伝承及び墓碑観察を分けて記録し,過去の全世帯・全墓碑への共有は前提としない.

白味噌雑煮と亀甲意匠の併存は京都文化との比較材料になり得るが,他地域・他家でも採用され得る.両要素から京都から門司への伝播,改姓以前からの家紋継承又は古代・中世のツツキ系集団との血統同一性を導かない.採用時期,伝承経路及び過去の六角形餅使用は未解明である.

A.4 小括

白味噌雑煮,餅の形状及び「亀甲に吉」は京都文化との比較材料である.ただし,排他的分布,採用年代及び伝播経路が未確認である以上,山城由来又は血統継承の証明にはならない.家習の採録と墓碑の写真・標本記録を,文化比較の精度を高める独立課題として保持する.

参考文献・利用史料目録

[1]経済雑誌社編『国史大系 第7巻』経済雑誌社,1898年.『古事記』上巻25頁,神武段69頁,開化段78―80頁,垂仁段86頁,仁徳段130―131頁,『先代旧事本紀』巻3・巻10,208―212,402―403頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 991097,26,48,53―54,57,79,118―120,215コマ. 第5稿における公開版面再確認は53―54,79コマ(2026年9月5日).https://dl.ndl.go.jp/pid/991097

[2]経済雑誌社編,黒板勝美校訂『国史大系 第1巻 日本書紀』経済雑誌社,1897年.神代上28頁,神武紀88―90頁,仁徳紀201―202頁,継体紀288頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 991091,19,52―53,108―109,152コマ. 第5稿における公開版面再確認は108―109,152コマ(2026年9月5日).https://dl.ndl.go.jp/pid/991091

[3]源順著『倭名類聚鈔』2,宝文堂,1869年.巻6山城国条・武蔵国条.国立国会図書館デジタルコレクション PID 863683,17,25コマ. 第5稿における公開版面再確認は17,25コマ(2026年9月5日).https://dl.ndl.go.jp/pid/863683

[4]皇典講究所・全国神職会校訂『延喜式:校訂』上巻,大岡山書店,1929年.巻9神祇9・神名式上,258,314頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1442211,164,192コマ. 第5稿における公開版面再確認は164,192コマ(2026年9月5日).https://dl.ndl.go.jp/pid/1442211

[5]松岡静雄著『日本古語大辭典』語誌篇,刀江書院,1929年4月18日,1404頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1145583,標題紙2コマ,864頁=447コマ,1299頁=664コマ,奥付717コマ. 第5稿における公開版面再確認は2,447,717コマ(2026年9月5日).https://dl.ndl.go.jp/pid/1145583

[6]菊池山哉『蝦夷と天ノ朝の研究』東京史談会,1966年,後篇第7章第4節197―201頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 9545448,275―277コマ.

[7]山崎麓校註『日本文学大系 校註 第10巻 宇治拾遺物語・古今著聞集』国民図書,1926年,565―567頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1018049,311―312コマ. 第7稿で同コマの公開版面を再確認(2026年9月5日).https://dl.ndl.go.jp/pid/1018049/1/311

[8]正宗敦夫編『吾妻鏡 第1』日本古典全集刊行会,1930年,216―218頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1111511,122―123コマ. 第7稿で列挙箇所と周辺版面を再確認(2026年9月5日).https://dl.ndl.go.jp/pid/1111511/1/123

[9]正宗敦夫編『吾妻鏡 第3』日本古典全集刊行会,1930年,54―57頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1109681,30―31コマ. 第7稿で列挙箇所と周辺版面を再確認(2026年9月5日).https://dl.ndl.go.jp/pid/1109681/1/31

[10]三教書院編輯部編『平家物語 中編』三教書院,1935年6月30日,244頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1077697,125コマ. 第7稿で同コマを再確認(2026年9月5日).当該刊本の底本写本・書写年代は未確認.https://dl.ndl.go.jp/pid/1077697/1/125

[11]『源平盛衰記』巻21―22,出版者不明,寛永年間.国立国会図書館デジタルコレクション PID 2544838,「小坪合戦事」17―18コマ(16コマも周辺照合). 大将・兄弟の句は17コマ右頁,14丁裏.第7稿で版面を再確認(2026年9月5日).https://dl.ndl.go.jp/pid/2544838/1/17

[12]『源平盛衰記』巻37―38,藤本久兵衛,寛永年間.国立国会図書館デジタルコレクション PID 2544862,「平家開城戸口並源平侍合戦事」11コマ. 第7稿で当該列挙のみ再確認(2026年9月5日).全巻・全伝本の不見調査ではない.https://dl.ndl.go.jp/pid/2544862/1/11

[13]佐藤春夫『武士の勃興』(現代人の日本史6),河出書房新社,1959年,342頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 2972830.「平治の乱というクーデター」は301頁から.綴喜一族追放の該当原文は未確認.

[14]斉藤直芳『弓馬と名将』(名将シリーズ2),雄山閣出版,1966年6月,272頁,図版,19cm.国立国会図書館デジタルコレクション PID 2511504.目次上の探索範囲は「武士と馬術」151―154頁であるが,経家の該当頁・原文は未確認のため本文根拠に不使用.

[15]石野瑛『皇国史と武相郷土』(神奈川県郷土愛叢書1),神奈川県図書,1941年,155頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1042094,98―99頁相当=57コマ. 第6稿所載のNDL OCR転記を継承.第7稿では原版面未確認.人名字順を含む原字の確定には使用しない.https://dl.ndl.go.jp/pid/1042094

[16]白井喬二『源平盛衰記』下巻,宝文館,1930年.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1171946.近代歴史小説であり,従来引用「綴喜の兵」の該当頁・原文は未確認のため本文根拠に不使用.

[17]角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典 40 福岡県』角川書店,1988年. 該当頁・原画像は第10稿未再確認.前稿の書誌・記述を継承し,独立した実証根拠には用いない.

[18]門司市編『門司市勢要覧』昭和7年度刊行,門司市,1932年11月15日発行(76コマ奥付).所収地図「綴木遊園地」部分,国立国会図書館デジタルコレクション PID 1448992,81コマ.第9稿で両版面を再確認.https://dl.ndl.go.jp/pid/1448992/1/81

[19]交詢社編『日本紳士録』41版(昭和12年),交詢社,1937年,巻頭凡例1―2頁(4―5コマ),福岡県233頁(896コマ左頁).PID 2127113.第9稿で重平・政夫両欄,欄外凡例及び採録・税額年度の凡例を再確認.https://dl.ndl.go.jp/pid/2127113/1/896

[20]門司市編『門司市史』門司市,1933年,第13章「人物」,839―840頁(市制30年記念の市表彰者一覧).PID 1050964,453―454コマ.第9稿で見出しと米市欄を連続照合.https://dl.ndl.go.jp/pid/1050964/1/454

[21]大日本雄辯會講談社編『武道寳鑒』大日本雄辯會講談社,1930年,462頁(総頁数).国立国会図書館書誌ID 000009225515.『昭和天覧試合』附録に当たる.「綴木米市・講四段」の該当頁は前稿確認記録を継承し,第9稿の版面再照合は未了.https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009225515

[22]大日本雄辯會講談社編『昭和天覧試合』附録「武道宝鑑」,大日本雄辯會講談社,1930年,PID 1212020.NDL書誌の注記は「付(462p 23cm):武道宝鑒」.[21]と別個の独立証拠には数えない.第9稿は書誌のみ再確認.https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I1212020

[23]内閣印刷局『官報』第3049号,1922年9月28日,本紙及び号外.PID 2955167.第9稿は公開画像を調査し,号外辞令の存在を確認したが,「綴木米市」の該当頁・氏名欄・栄典区分は未特定.本文中の叙勲の根拠としては採用しない.https://dl.ndl.go.jp/pid/2955167

[24]北川由之助編『日本之精華』毎日通信社,1914年.国立国会図書館書誌ID 000000592919.第9稿は書誌・所在確認,米一及び尺八の該当本文は未確認.https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000592919

[25]全逓信労働組合編『全逓労働運動前史』上巻,全逓信労働組合,1965年.国立国会図書館書誌ID 000001077044(上・下・別巻の総合書誌).第9稿は書誌・所在確認.米市・門司局争議の該当頁と原文は前稿確認記録を継承し,再照合未了.https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001077044

[26]警眼社編『警察年鑑』昭和5年版,警眼社,1930年,福岡県352頁,「高等ニ關する事項(昭和三年十二月末日現在)」の各種団体・思想関係欄.PID 1442599,190コマ右頁.第9稿で「大日本國柱軍門司本部,綴木組」の列記を再確認.米市の氏名・役職はこの欄にない.https://dl.ndl.go.jp/pid/1442599/1/190

[27]長田弘「白味噌のお雑煮」『國際文化』201号,國際文化振興會,1971年3月. 該当頁・原画像は第10稿未再確認.前稿の書誌・記述を継承し,独立した実証根拠には用いない.

[28]「京風白味噌雑煮」『茶道月報』510号,茶道月報社,1955年1月. 該当頁・原画像は第10稿未再確認.前稿の書誌・記述を継承し,独立した実証根拠には用いない. 記事執筆者未確認.

[29]佐藤虎雄『和鏡』(日本の美と教養6),一条書房,1944年. 該当頁・原画像は第10稿未再確認.前稿の書誌・記述を継承し,独立した実証根拠には用いない.

[30]『郷土の文化財 第15巻』宝文館出版,1965年. 該当頁・原画像は第10稿未再確認.前稿の書誌・記述を継承し,独立した実証根拠には用いない. 編著者・図版番号未確認.

[31]『能装束 下巻』東京中日新聞出版局,1963年. 該当頁・原画像は第10稿未再確認.前稿の書誌・記述を継承し,独立した実証根拠には用いない. 編著者・図版番号未確認.

[32]塙保己一編『群書類従 第拾七輯』経済雑誌社,1894年.『新撰姓氏録』未定雑姓序・山城国条,212―215頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1879818,111―112コマ.

[33]橘成季『古今著聞集』20巻10冊,宮内庁書陵部蔵,500・21,御所本.書陵部目録の書写年代は「写 江戸初期」.巻10馬芸・第14・第364話,国文学研究資料館『国書データベース』書誌ID 100190287,画像264―266.第7稿で目録番号の対応と該当画像を確認(2026年9月5日).https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Detail/1000041300000https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100190287https://kokusho.nijl.ac.jp/page/list-syoryoubu.html

[34]経済雑誌社編『国史大系 第3巻』経済雑誌社,1897年.『続日本後紀』承和5年2月22日条,243頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 991093,129コマ. 第5稿における公開版面再確認は129コマ(2026年9月5日).https://dl.ndl.go.jp/pid/991093

[35]佐佐木信綱・武田祐吉編『万葉集:西本願寺本 巻20』竹柏会,1933年.天平勝宝7年2月の防人歌題詞・左注.国立国会図書館デジタルコレクション PID 1242481,16,40コマ. 第5稿における公開版面再確認は40コマ(2026年9月5日).https://dl.ndl.go.jp/pid/1242481

[36]経済雑誌社編『国史大系 第2巻 続日本紀』経済雑誌社,1897年.巻26天平神護元年8月条,448頁.国立国会図書館デジタルコレクション PID 991092,230コマ. 第5稿における公開版面再確認は230コマ(2026年9月5日).https://dl.ndl.go.jp/pid/991092

[37]浄土真宗本願寺派「よくあるご質問―法名とは」浄土真宗本願寺派公式ウェブサイト,https://www.hongwanji.or.jp/faq/list.html(2026年9月4日閲覧).

[38]浄土真宗本願寺派「法名の授与に関する寺達」平成24年寺達第13号,2012年2月10日,https://www.hongwanji.or.jp/info/reiki_int/reiki_honbun/x034RG00000432.html(2026年9月4日閲覧).

[39]時津裕子「近世墓にみる階層性―筑前秋月城下の事例から―」『日本考古学』7巻9号,2000年,97―122頁,doi:10.11215/nihonkokogaku1994.7.97.

[40]森謙二「墓と祖先祭祀についての法社会史的研究―家族・村落構造の関わりで」科学研究費助成事業研究成果概要,課題番号06620010,1994―1995年度.

[41]北九州市門司区長認証『除籍謄本』2019年4月1日交付,2葉,綴木家所蔵.第10稿で第9稿内包の人物欄・認証欄を再読.全葉・高次欄及び前後戸籍は未再照合.非公刊資料のためPID・刊本頁は該当しない.

[42]庄司町墓地綴木家関係墓碑に関する著者観察報告.観察上の最古年紀は明和5年.写真,四面全文,実測,建立・追刻・移転時点,過去帳照合及び調査日は現稿未提示.

[43]帝国興信所編『帝国銀行会社要録:附・職員録』大正2年(2版),帝国興信所,1913年,福岡県会社「も」部35頁(門司潮湯株式会社).PID 974390,761コマ左頁.第9稿で取締役綴木六郎・所在地・会社設立年月を再確認.https://dl.ndl.go.jp/pid/974390/1/761

[44]日本基督教会同盟編『教会便覧』1巻,警醒社書店,1915年,159頁,「日本浸禮教會教役者一覽」荒瀬鶴喜欄.PID 907978,84コマ左頁.第9稿で住所「綴木内」を再確認.https://dl.ndl.go.jp/pid/907978/1/84

[45]帝国商工会編『帝国商工録』昭和6年版九州版,帝国商工会,1931年,福岡県167頁,「和洋料理カフェー・貸席待合」欄.PID 1031405,91コマ左頁.第9稿でマツ子欄を再確認し,前稿の166頁を訂正.https://dl.ndl.go.jp/pid/1031405/1/91

[46]東京大学史料編纂所編『大日本近世史料 小倉藩人畜改帳二』東京大学出版会,1957年,125―131頁,国立国会図書館デジタルコレクション,PID 3450986.

[47]北九州市立中央図書館「小倉藩の分限帳を探しています.それに類似する資料はありますか」国立国会図書館レファレンス協同データベース,登録番号1000116270,https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000116270(2026年9月4日閲覧).

[48]熊本大学附属図書館「永青文庫細川家資料 系譜・先祖附・養子縁組・格式―223侍帳」https://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/local/eisei/right22.html(2026年9月4日閲覧).

[49]北九州市立中央図書館「江戸時代の門司村(現在の門司区)の『人別帳』または『宗門人別帳』は所蔵していますか」国立国会図書館レファレンス協同データベース,登録番号1000384770,https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000384770(2026年9月4日閲覧).

[50]「僧圓定田地寄進状」天福2年9月22日.東京大学史料編纂所編『大日本古文書 家わけ第十八 東大寺文書之九(東大寺図書館架蔵文書之四)』849号,119―120頁;竹内理三編『鎌倉遺文 古文書編 第7巻』東京堂出版,1974年,4690号,145頁.百巻文書第91巻.前者の公開版面は第5稿の2026年9月5日照合記録を継承.第10稿では同公開頁を再取得できず,原文書画像の未確認も継承する.利用公開画像に対応する刊本の出版者・刊年・奥付は未確定.後者の収録番号は[60],所在句の採録は[61]による.後者の刊本版面・全文対校及び原文書画像は未確認.https://dip-s.lab.hi.u-tokyo.ac.jp/item/850_8500_05_1810-0119https://dip-s.lab.hi.u-tokyo.ac.jp/item/850_8500_05_1810-0120

[51]市辺自治会文書「乍恐口上書」宝永3年8月.提供刊行翻刻画像の編集見出しは,市辺村百姓14名による訴願とする.「山城綴木郡」の木の右に小字「(喜)」.掲載刊本・頁・注記凡例及び原文書は未確認.照合候補は[63].第4稿記載URLの正題は,城陽市歴史民俗資料館「JOYOエコミュージアム・令和5年度秋季特別展『城陽の絵図と地図-描かれた近世の村-』」.同URLは市辺自治会文書等の所蔵群を探す手掛かりであり,当該口上書の本文典拠ではない.https://www.city.joyo.kyoto.jp/0000009238.html (2026年9月5日確認).

[52]渡邉喜一編,山中良二郎監修『新編佐竹七家系図』加賀谷書店,1993年2月,全325頁.副題相当の注記:壱岐家・式部家・左近義方家・北家・東家・南家・西家.第9稿内包の切抜き図5を第10稿で再読し,「千三郎 綴木氏を称」,享和2年7月2日生,文化3年9月25日袴着,文化8年8月16日没・十歳,母欄の戸村氏・義敬五女を確認.該当頁・親見出し・父名・兄弟欄・底本は未確認.旧稿の325頁は総頁数と区別し,該当頁としては採用しない.国立国会図書館サーチ(茨城県立図書館提供書誌),https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I08111001001219777 (2026年9月5日,第10稿で公的書誌・内包画像を再確認).

[53]相生町誌編纂委員会編『相生町誌』相生町,1973年,464頁(頁番号は提供情報を継承),部落史編・世帯表.図6の「先祖は赤松高瀬綴木家より分れて来たが、詳細不明」を第10稿で再読.世帯主欄の姓は「葛木」であり,分出元「綴木」と区別する.画像内に頁番号は見えず,全頁・奥付・凡例・原調査票・聞取方法は未確認.編者名・発行者・刊年は[83]の公的書誌で第10稿でも照合した.1973年は刊行時点であり,移住年代又は聞取実施年を意味しない.

[54]美波町「美波町地域集会所設置及び管理に関する条例」平成18年3月31日条例第86号,第2条・高瀬集会所の位置欄:「美波町赤松字高瀬213番地」.美波町例規集,https://www.town.minami.lg.jp/reiki_int/reiki_honbun/r258RG00000176.html (2026年9月5日公式ウェブ本文確認).第7稿の民間地図に代わる公的な地名確認の根拠とする.公共施設所在地であり,綴木家屋敷地の資料ではない. 第10稿で2026年9月5日に公開本文を再確認.

[55]「『綴木』という名字(苗字)の読み方・レア度・由来・都道府県別ランキング」ネムディク,https://myoji.namedic.jp/sei/detail/%E7%B6%B4%E6%9C%A8 .第7稿の2026年9月4日閲覧記録を継承.電話帳等に基づく二次的な推計を含む.第8稿では原電話帳・集計単位・時点・推計法を照合していないため,「約10人」や人口比順位を本文の根拠から外し,分布探索の補助資料に限定する.

[56]丹羽基二『難姓・難地名事典』新人物往来社,1994年,259頁,ISBN 4-404-02116-X.凡例(提供画像に頁番号なし)及び164頁「綴喜」二項目の抜粋画像を第10稿で直接再読.CiNii(NCID BN11755001)及び国立国会図書館サーチは1994年11月刊,出版社KADOKAWAの案内は1994年10月21日発売と表示する.個々の採録典拠及び全巻正誤表は未確認.https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN11755001https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002372943https://www.kadokawa.co.jp/product/201216010827/ (2026年9月5日,第10稿でCiNii本文・出版社案内を再確認;NDL書誌の確認記録は前稿から継承).

[57]京都市「年表 都市のすがた」延暦13年条.https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/toshi_n_frame.html (2026年9月5日公開検索表示確認).改称記事の伝存本文の照合先:『日本紀略』延暦13年11月8日条・『日本後紀』巻3逸文.当該詔の原紙又は同時代写本は未確認.

[58]京田辺市「田辺町誕生以前の旧村域」2024年3月28日.https://www.city.kyotanabe.lg.jp/0000020401.html (2026年9月5日確認).旧村域・郡役所の解説を参照.本文中の年号換算の誤植は本稿へ転記しない.

[59]國學院大學「古典文化学」事業,宮都データベース「夜麻志呂能都々紀能美夜」及び同凡例.https://kojiki.kokugakuin.ac.jp/kyuto/yamashironotsutsukinomiya/ (2026年9月5日確認).現代の整理見出し及び比定説の位置付けに利用.

[60]西尾知己作成(©2011),遠藤基郎公開「東大寺文書に見える散在田地・畠地・家地など一覧 鎌倉中期(貞応元〔1222〕~寛元3〔1245〕)分」,管理番号946,天福2年9月22日.https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/endo/2008-10kaken/sanzaiden_todaijimonjo_5kamakurachuki1.htm (2026年9月5日確認).百巻91・鎌倉遺文7巻4690号との対応に利用し,表中の整理地名を原字の転記とはしない. 第10稿で2026年9月5日に公開本文を再確認.

[61]「ムラの戸籍簿」データベース「山城国」,大住郷・天福2年9月22日条.https://drfh.jp/mura/index.php?title=山城国 (2026年9月5日確認).『鎌倉遺文』7巻145頁を出典とする所在句の公開採録.刊本版面確認の代替とはしない.

[62]遠藤基郎「大日本古文書家わけ第十八 東大寺文書編纂ノート」.https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/endo/todaijinote.html (2026年9月5日確認).成巻文書の影写本3071.65/64/1~31,写真帳6171.65/34/1~19等の案内.該当原文書の冊・コマは未特定. 第10稿で2026年9月5日に公開本文を再確認.

[63]城陽市教育委員会『史料が語る城陽近世史 第1集 青谷地域編』1984年3月.尼崎市立歴史博物館の蔵書書誌,資料ID 0000012938,及び京都市図書館の地域資料一覧で書誌確認.1706年口上書の収録を確認した文献ではなく,照合候補として掲げる.https://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/opac/pm_detail.php?id=0000012938https://www2.kyotocitylib.jp/wysiwyg/file/download/1/121 (2026年9月5日確認).

[64]丹羽基二『姓氏・地名・家紋総合事典』新人物往来社,1988年,ISBN 4-404-01467-8.先行著作の書誌のみ確認.1994年辞典の個別典拠とは未確定.https://www.kadokawa.co.jp/product/201216011923/ (2026年9月5日確認).

[65]横浜市都筑区「都筑区の歴史」2024年5月23日更新.https://www.city.yokohama.lg.jp/tsuzuki/shokai/gaiyo/1-03rekisi.html (第6稿でも2026年9月5日に再確認).1993年の公募・選定・決定,1994年の成立を区別. 第10稿で2026年9月5日に公開本文を再確認.

[66]横浜市都筑区役所『2006年版 都筑区統計要覧』冒頭「区名『都筑区』について」.https://www.city.yokohama.lg.jp/tsuzuki/kusei/tokei/tokeiyoran/toukeidemirutuzuki.files/0025_20200330.pdf (第5稿の2026年9月5日公開本文確認記録を継承).後年の公式説明資料.第6稿の同時点の選定理由は[71]所収1993年付報告書を根拠とする.

[67]国立公文書館「歴史と物語」年表及び「5.続日本後紀」.https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishitomonogatari/history01.htmlhttps://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishitomonogatari/contents/05.html (2026年9月5日確認).作品成立年と伝本年代の区別に利用.

[68]和歌山県立博物館収蔵品データベース「真福寺本古事記」(ID 198).https://jmapps.ne.jp/hakubutuwakayama/det.html?data_id=198 (2026年9月5日確認).1371―1372年の書写年代の解説に利用.当該写本のツツキ箇所の字形は本稿未対校.

[69]愛媛県歴史文化博物館「延喜式神名帳」,文化遺産オンライン.https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/358464 (2026年9月5日確認).927年成立と後代刊本の区別に利用.

[70]国立国会図書館レファレンス協同データベース「下記5冊について出版年を教えて欲しい.①賦役令②正倉院…」登録番号1000084176,及び「『和名抄』を見たい」登録番号1000068340.『国書総目録』等による承平年間又は承平5年以前という成立年代の整理.https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000084176&page=ref_viewhttps://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000068340&page=ref_view (2026年9月5日確認).

[71]横浜市市民局行政区再編成担当編・発行『横浜市行政区再編成の記録[港北区・緑区・青葉区・都筑区]』1995年3月.奥付の編者・発行者表示を採用.港北ニュータウン記念協会公開PDF,http://kn-kk.com/kohokuarchives/linkpdf/05065.pdf (2026年9月5日,第6稿の版面確認記録を継承;第10稿では公開PDFを再取得できなかった).27頁:基準アンケート・公募,28―29頁:応募箱・応募案内,30頁:応募順位表,31―32頁:審議・投票・条例議決と公布,34―35頁:1993年10月26日付区名選定報告書全文,37頁:応募状況,38頁:応募要領,68頁:『広報よこはま・D区準備号』1993年12月号.以上はPDF39―44,46―47,49―50,80頁.奥付はPDF113頁.旧稿に残る庁内用版の別頁付は未再照合のため引用位置に用いない.

[72]横浜市立都筑図書館「郷土資料の基本リスト」2026年4月28日更新,「都筑区の通史・民俗がわかる資料4」『都筑の民俗 横浜市・港北ニュータウン郷土誌』(港北ニュータウン郷土誌編纂委員会,1989年)の案内.横浜市計画局委託による1974年から延べ11年間の歴史民俗調査を説明する.https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/tsuzuki/library-material/kyodo/kyodo.html (2026年9月5日公式解説確認).本稿は調査事業の存在を確認するために用い,1989年刊本の全文を新規確認したとはしない.

[73]横浜市都筑区「令和3年度都筑区地区センター及び横浜市つづき緑寿荘指定管理者公募について」2024年12月27日更新,「都筑センター概要」.開設年月日を昭和59年11月7日と記載.https://www.city.yokohama.lg.jp/tsuzuki/kusei/shiteikanrisha/chikic/chikucenterkoubo3.html (2026年9月5日公式施設概要確認).

[74]高橋秀樹「『吾妻鏡』について実証的に考える」『軍記と語り物』59,2023年,1―16頁,特に伝本・北条本の検討(1―6頁).doi:10.60342/gunkitokatarimono.59.0_1.北条本の収集・補写を含む成立過程の整理に参照し,都筑平太の対象条の原字を直接対校した研究としては扱わない.https://www.jstage.jst.go.jp/article/gunkitokatarimono/59/0/59_1/_pdf (2026年9月5日確認).

[75]岡田三津子「成簣堂文庫本『源平盛衰記』訓読索引稿」『大阪工業大学紀要 人文社会篇』50巻1号,55―89頁.公開書誌の刊行年は2006年,論文巻頭の巻号年次表示は2005年.55―56頁の版面を確認し,作品成立時期の不確定性と現存写本の年代の整理に参照.成簣堂本の綴党該当箇所自体は未対校.https://oit.repo.nii.ac.jp/record/500/files/50_1_4.pdf (2026年9月5日確認).

[76]国立国会図書館レファレンス協同データベース「平家物語の成立時期」に関する回答,登録番号1000113405.原形の成立と諸本の展開を区別するための参照情報.1935年三教書院刊本の底本を同定する資料としては用いない.https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000113405&page=ref_view (2026年9月5日確認).

[77]昭島市史編さん委員会編『昭島市史』昭島市,1978年10月,第五編「律令国家時代」,第四章第三節「武蔵七党と多摩郡」,一「武蔵七党」,446―448頁.昭島市デジタルアーカイブの公開本文を確認.近現代市史の説明とそこに引用される古典本文を区別する.https://adeac.jp/akishima-arch/texthtml/d400030/mp400030-400030/ht050520 (2026年9月5日確認).

[78]横浜市立図書館「緑区史 資料編 第1巻」公開目次,2024年7月31日更新.中世第1章40―49,51―54の項目を確認.目次の整理名・整理年代は原史料の引用ではない.1195年都筑平太記事等の出典本文・年月日・原字は未照合であり,検索案内としてのみ採用する.https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/shiru/kakuku/midoriku/2010992772-c.html (2026年9月5日確認).

[79]秋田県立図書館「佐竹東家・南家・西家の歴代当主の生没年月日が分かる資料はないか.」国立国会図書館レファレンス協同データベース,管理番号秋田-1774,登録番号1000163299,2014年11月21日作成,2015年2月12日更新.1993年版「はしがき」の紹介及び1973年版付録133―167頁の案内.https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000163299&page=ref_view (2026年9月5日公開回答本文確認).両刊本の本文対校を済ませたものではない. 第10稿で2026年9月5日に公開本文を再確認.

[80]原武男編『新編佐竹氏系図』加賀谷書店,1973年7月,付録「佐竹氏五家略系図」133―167頁.書誌・付録範囲は[79]による.本稿では当該付録本文及び千三郎条の有無を未確認.1993年版の先行刊本として照合対象に挙げ,独立の氏称証拠には数えない.

[81]美波町「町の概要・アクセス」中の「合併の経過」,https://www.town.minami.lg.jp/docs/179.html ;日本郵便「徳島県 海部郡日和佐町」郵便番号検索・旧新住所対応(赤松),https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?city=1363821&cmp=1&pref=36 (2026年9月5日公式ウェブ本文確認).1956年・2006年の町村沿革と日和佐町赤松から美波町赤松への変更を確認.1973年の小字境界・地番は未対校.

[82]那賀町「合併に伴う住所変更について」2025年1月30日更新,「旧相生町の変更点」.2005年3月1日の合併と相生町域の那賀町への住所変更を確認.https://www.town.tokushima-naka.lg.jp/soshiki/1001/sumai/3664.html (2026年9月5日公式ウェブ本文確認).

[83]徳島市立図書館『阿波晩茶の調べ方』2021年10月16日更新,PDF1頁「自治体史などを用いることで,より詳しい情報を調べてみましょう」の資料一覧.『相生町誌』の編者を相生町誌編纂委員会,発行者を相生町,1973年刊,請求記号T241.4/アイとする.https://www.city.tokushima.tokushima.jp/toshokan/recommend/passfinder/index.files/awabancha.pdf (2026年9月5日公的資料案内確認).町誌464頁の本文の典拠には代用しない. 第10稿で2026年9月5日に公開本文を再確認.

[84]地方史班(徳島地方史研究会)名倉佳之・立石恵嗣・須藤茂樹・大柴せつ子・根津寿夫・松下師一・金原祐樹「日和佐町の古文書調査」『郷土研究発表会紀要』43号,徳島県立図書館公開本文,第1節「日和佐町調査の概要」.https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/43/4327.html (2026年9月5日公開本文確認).『徳島県史料所在目録7』の1976年3月刊行と,後年の調査時における資料散逸・所蔵者変更を案内.電子化時に原文表記の一部変更がある旨の表示に留意し,刊本頁・刊行年は本稿で確定しない.赤松高瀬綴木家文書の存在・現所蔵を示す資料ではなく,所在探索の手掛かりとして用いる.

[85]昭和館図書室「昭和天覧試合 附録/武道宝鑑」所蔵目録,資料コード000034544.1930年5月,462頁・図版16枚との書誌記録.2026年9月5日確認.https://search.showakan.go.jp/search/book/detail.php?material_cord=000034544

付表1 六命題別の判定と論理的限界

「判断」は表4の五区分に従う.同一命題でも地域又は時点により判断が異なる場合は,範囲を明示して併記する.

命題

論証対象

主要根拠

資料状態

歴史判断

含意しない事項

P1

ツツキ称呼・地域

記紀,万葉集,続日本紀,倭名類聚鈔,延喜式等の地名・宮号・郡名

原画像確認(利用刊本)

確認

氏族名・名字「綴木」,世襲姓,門司家系譜

P2

「綴木」字形

1234年付文書の学術翻刻,1706年付文書の翻刻提供画像,松岡,菊池,丹羽,佐竹系図,近現代姓

刊行翻刻・内包画像確認/後代著者の再構成/前稿確認記録継承

確認

すべての時代・地域で同じ意味をもつこと,同族性

P3

綴喜郡の異表記

「山城国綴木郡」「山城綴木郡」と地域文脈

刊行翻刻の確認記録継承/1706年翻刻画像再読.原文書未確認

確認

原文書の字形,一般的・公的な標準異体字

P4

人物の「綴木氏」称

佐竹家関係刊行系図の「千三郎 綴木氏を称」

原画像確認(刊行系図該当箇所の抜粋)/後代著者による解釈・再構成

確認

掲載頁・父名・兄弟,生前公称,読み,命名理由,世襲分家

P5

世襲姓・家

門司除籍の同姓家族の明示的続柄,徳島町誌の分出家伝

原画像確認/前稿翻刻継承/家伝

確認(明示的続柄)/判断不能(成立時点・他地域)

古代以来の家,佐竹・徳島・門司の同一家系

P6

地域間血統

接続史料なし.旧稿は音・字形・地理を接続

未確認

判断不能/旧稿の肯定説は撤回

血統的不連続又は祖先の不存在

付表2 史料別の資料状態・歴史判断一覧

歴史判断は「何が記されているか」という限定命題に対する判定であり,資料中の物語・家伝がそのまま史実であることを意味しない.

命題

史料・資料

照合事項

資料状態

歴史判断

限定

P1

『古事記』1898年刊本

山代之荏名津比賣,大筒木,筒木韓人,都都紀能美夜

原画像確認

確認

地名・宮・個人名要素.氏族名「綴木」ではない.

P1

『日本書紀』1897年刊本

筒城岡,筒城宮,山背筒城

原画像確認

確認

地名・宮号.松岡の「筒木」を原字へ遡及しない.

P1

『万葉集』巻20・1933年刊本

都筑郡上丁

原画像確認

確認

武蔵国の出身郡名.名字ではない.

P1

『続日本紀』1897年刊本

綴喜郡松井村

原画像確認

確認

765年条の行政地名.

P1

『倭名類聚鈔』1869年刊本

綴喜郡〈豆々木〉,都筑郡

原画像確認

確認

郡名の訓と郷名を区別する.

P1

『延喜式』1929年刊本

綴喜郡十四座,都筑郡一座

原画像確認

確認

行政郡名.軍記物語ではない.

P1

『続日本後紀』1897年刊本

武藏國都築郡

原画像確認

確認

利用版の郡名字形.原本字形・名字起源は示さない.

P1/P6

記紀の山代祖伝承

天津日子根命/天津彦根命

原画像確認

確認

神話的祖系.饒速日命へ単線化しない.

P1/P6

『先代旧事本紀』1898年刊本

天伊岐志邇保命・山代國造等祖

原画像確認

確認

饒速日尊の随伴者として配置.後裔・綴木氏祖ではない.

P1/P6

『新撰姓氏録』1894年刊本

山代直 火明命之後者。不見。

原画像確認

確認

饒速日命後裔又は山代綴木とは記さない.

P2/P3

1234年付僧圓定田地寄進状

綴木郡大住郷;『大古文』849号/『鎌遺』4690号

刊本版面確認/鎌遺出典の公開採録との句単位照合

確認

同一文書一通.原本・写しの別,原字形及び二刊本全文対校は未了.

P2/P3

1706年付市辺村口上書

山城綴木郡(木の右に小字「喜」)

原画像確認(刊行翻刻提供画像)/未確認

確認

原文書,掲載書誌,頁及び凡例は未確認.

P2/P3

松岡『日本古語大辭典』1929年

説明文の山城國綴木郡

原画像確認/後代著者による解釈・再構成

確認

見出しは綴喜・筒木・筒城.古代本文ではない.

P2

菊池『蝦夷と天ノ朝の研究』1966年

山代綴木/山城ノ綴木

原画像確認/後代著者による解釈・再構成

確認

意図的選択は蓋然的推定.古代原文・氏族名ではない.

P2

丹羽『難姓・難地名事典』1994年

凡例③「おもな関連姓氏」と164頁③の綴木

原画像確認(凡例・刊行頁)/後代著者の分類

確認

辞書的分類を確認.典拠・分類根拠・古代姓・血統関係は未確定.

P4

『古今著聞集』書陵部500・21

つつきの平太経家

原画像確認/江戸初期写

確認

仮名冠称.1254年の自筆原稿ではない.[33]画像264―266.

P4

『古今著聞集』1926年刊本

綴喜平太經家;狩猟随行・入海死

原画像確認

確認

刊本字形.捕縛・死亡の年と場所は不明.山城出身を示さない.

P4

『吾妻鏡』1930年刊本2箇所

都筑平太

原画像確認

確認

諱なし.経家との同一性は通称・年代・活動圏の整合を条件とする検証仮説.

P4

『平家物語 中編』1935年刊本

西黨,綴喜黨…兵共

原画像確認

確認

軍記中の党名.経家・血縁・共有所領・個別指揮系統を示さない.

P4

『源平盛衰記』巻21・寛永刊

武藏國ノ住人綴黨ノ大將…太郎五郎

原画像確認

確認

17―18コマ.兄弟は太郎・五郎の関係.経家・党全体との血縁を示さない.

P4

『源平盛衰記』巻37・寛永刊

11コマの一ノ谷列挙に綴喜・都筑なし

原画像確認

確認

この版・この列挙のみの不見.全巻・全伝本の不存在へ広げない.

P4/P6

石野瑛1941年

綴党・都筑平太經家と,別文の元寇記事

未確認/第6稿OCR転記継承/後代著者による解釈・再構成

撤回

経家又は後裔への元寇文接続を撤回.集団同定は石野の説.原字・字順は未確定.

P4/P6

佐藤春夫1959年

平治の乱による綴喜一族追放説の帰属

書誌のみ確認/本文未確認

撤回

該当頁・原文未特定.同書全文に存在しないと証明したものではない.

P4

斉藤直芳1966年

経家関係記事

書誌のみ確認/未確認

判断不能

該当頁・原文・典拠未確認.

P4

白井喬二1930年

一ノ谷の「綴喜の兵」の原典という帰属

書誌のみ確認/本文未確認

撤回

近代歴史小説.該当原文未特定.確認引用は別に1935年刊『平家物語』に置く.

P4/P5

『新編佐竹七家系図』1993年[52]

千三郎 綴木氏を称

原画像確認(提供切抜き)/後代編纂

確認

千三郎へ訂正.325pは総頁数.母欄確認,父・兄弟・継承等は未確認.

P5

『相生町誌』1973年[53]

葛木姓世帯の先祖は赤松高瀬綴木家より分出,詳細不明 第10稿で提供画像を再読/家伝

確認

世帯主欄と分出元の姓表記を区別.464頁は提供情報.分出・改姓の人物・年代・事情は未確認.

P5/P6

美波町条例・行政沿革等[54][81]

現美波町赤松字高瀬/1973年は日和佐町

公式ウェブ本文確認

確認

地名・行政区画の対応.家系・屋敷・旧小字境界の資料ではない.

P5/P6

電話帳由来姓氏分布集計

徳島県内の綴木姓推計

後代の二次集計/第7稿の確認記録を継承

確認(旧稿の掲載記録)

現稿は人数・順位を根拠にしない.原電話帳・時点・個別血縁は未照合.

P5

北九州市門司区長認証除籍謄本

熊蔵の生没・増之助との祖孫関係,安吉と増之助の父子関係

原画像確認(第9稿)/高次は前稿翻刻継承

確認

後代戸籍の遡及記載.熊蔵―安吉の父子線,全葉及び高次欄は要再照合.

P5

庄司町墓地の墓碑

明和5年~文久元年の年紀,法名,家紋

著者観察資料(写真・全文未提示)

確認(観察報告)/判断不能(銘文・系譜の検証)

観察上の最古は明和5年.四面全文,建立・追刻時期,過去帳との対応は未了.

P5

宗門改帳・人別帳・人畜改帳

門司関係帳簿の所在

書誌のみ確認

判断不能

綴木姓本文の照合未了.

P5/P6

分限帳・侍帳・細川・小笠原家資料

複数年次の所在・目録

書誌のみ確認

判断不能

本文・収録階層・対象年次を未照合.不見から郷士身分を導かず,近世身分は判断不能.

P5

『帝国銀行会社要録』1913年

1913年の綴木六郎・取締役,会社設立は1912年9月

原画像確認(第9稿,761コマ)

確認

六郎の設立時在任,熊蔵系及び他の同姓人物との親族関係は不明.

P5

『教会便覧』1915年

教役者荒瀬鶴喜の住所中「門司市楠町六丁目綴木内」

原画像確認(第9稿,159頁)

確認

綴木を教役者氏名に読み替えない.綴木側の個人名・宗旨・家族関係は不明.

P5

『帝国商工録』1931年

福岡県167頁,業種欄の綴木マツ子・日出町一丁目

原画像確認(第9稿,91コマ)

確認

166頁を167頁へ訂正.個別業態・規模・土地所有・親族関係は不明.

P5

『門司市勢要覧』1932年刊冊子所収地図

綴木遊園地名,1932年11月15日発行の奥付

原画像確認(第9稿,76・81コマ)

確認

成立年・開園年・土地所有・経営・寄付・地域貢献は名称から確定しない.

P5

『日本紳士録』1937年

重平=家主,両名の町丁目一致,掲載所得税72円・53円

原画像確認(第9稿,凡例及び233頁)

確認

凡例の採録条件も確認.職業の相互補完,名望家評価,親族同定,近世家格へ拡張しない.

P5

『門司市史』1933年

1929年市制記念の感謝状一覧に市会議員綴木米市

原画像確認(第9稿,839―840頁)

確認

公職・表彰の掲載を確認.任期全体,選挙,議案・発言・採決は未確認.国の叙勲とは別.

P5

『武道寳鑒』等1930年

綴木米市・講四段

前稿確認記録の継承/第9稿は書誌確認

確認(前稿記録)/判断不能(資格解釈)

独立した二史料と数えない.氏名欄・略号凡例・師範資格は第9稿未再照合.

P5

『全逓労働運動前史』1965年

米市を市会議員・政治結社党首と記す

前稿確認記録の継承/第9稿は書誌確認

確認(前稿記録)/判断不能(役割・評価)

該当頁・事件年・全文の再照合未了.調停,党首,労働者支持を市史から補わない.

P5

『官報』第3049号1922年

綴木米市・叙勲という旧稿主張

原画像調査/対象氏名・本文は未特定

判断不能

本紙・号外の刊行は確認.該当氏名・栄典区分・発令日等は未特定.不見・叙勲なしとも断定しない.

P5

『日本之精華』1914年

綴木米一・尺八という旧稿主張

書誌のみ確認/未確認

判断不能

本文未確認.米市との同定資料なし.

P5

『警察年鑑』1930年

1928年末の思想関係欄「大日本國柱軍門司本部,綴木組」

原画像確認(第9稿,352頁)

確認(名称の列記)

米市の氏名・役職はこの欄にない.二名称の組織関係も未確定.警眼社の編纂刊行物.

現代名称史

横浜市行政区再編成の記録1995年[71]所収1993年付報告書・募集要領等

基準調査・自由公募・委員会内投票・条例決定,歴史継承と将来願望

原画像確認(公開刊本の該当頁)

確認

同時点の委員会説明.応募者の個別動機,古代語源及びP6は示さない.

補論A

白味噌雑煮・亀甲関係文献

京都の習俗・意匠に関する記載

前稿確認記録継承/第10稿は該当原画像・頁未確認 判断不能(引用箇所の再検証) 比較資料として保持.排他的分布,家紋起源及び門司への伝播の証明には用いない.

現代名称史

横浜市立都筑図書館の公式資料案内[72]

1974年からの市計画局委託調査と1989年刊『都筑の民俗』

公式ウェブ本文確認/刊本自体は本稿で未確認

確認

調査事業の存在.職員一人ひとりの知識を示さない.

現代名称史

横浜市の都筑センター施設概要[73]

1984年11月7日開設

公式ウェブ本文確認

確認

区名選定前の名称使用.個別応募者の動機は示さない.

P4

『昭島市史』1978年

綴党・綴喜党・都筑郡及び経家説話の整理

公式ウェブ本文確認/後代著者による解釈・再構成

確認

市史の説明の存在を確認.平家郎等から平氏血縁を確定しない.[77]

P4/P6

『緑区史』公開目次

1195年都筑平太等の検索候補

公式ウェブ本文確認(目次)/原史料本文未確認

検証仮説

目次の整理表記を原字としない.経家の活動終年・後裔の証拠に加えない.[78]

付表3 旧稿主要主張の再判定

本表は,従来稿の主要主張を表4の五区分へ正規化したものである.「撤回」は反対命題の証明ではなく,従来の肯定的叙述を維持しないことを表す.

旧稿の主要主張

歴史判断

根拠

追加検証

対応命題

確認した古代本文による綴木姓の立証

撤回

確認した本文には見いだせない.この判定は確認範囲内の限定的不見である.

別写本,木簡,同時代氏姓・系譜資料

P4/P5

古代綴木姓の社会全体での存否

判断不能

調査範囲外まで含む不存在は証明できない.

別写本,木簡,同時代氏姓・系譜資料

P4/P5

「山代綴木」は古代氏族名である

撤回

著者又は編集段階の再構成表記と推定.古代原文の字形ではない.

同時代又は近接史料

P2/P4

饒速日命の後裔に山代綴木がある

撤回

菊池の饒速日箇所と山代綴木箇所は別文脈である.

後代系譜説としてのみ検討

P6

綴喜平太経家と都筑平太を確定的に同一人物とする

撤回

諱・親族・所領の直接接続なし.同一人物の可能性は本表末尾の検証仮説として保持する.

通称・年代・活動圏の照合及び反証条件の確認

P4

佐藤春夫を根拠に経家を平治の乱の追放一族とする

撤回

佐藤書の該当頁・原文は未特定.全文での不存在を意味しない.

該当原文と依拠史料の特定

P4/P6

白井書を一ノ谷の「綴喜の兵」の原典とする

撤回

実見引用は1935年刊『平家物語』の綴喜黨.白井の該当箇所は未特定.

軍記の版・頁・原字,参戦の別史料

P4

石野の元寇文から経家又は後裔の功績を導く

撤回

継承OCRでは小弐父子・武藤氏の文へ主語が移る.人名字順は未校訂.

石野の原版面・八代説の出典確認

P6

承久の乱で綴喜から綴木へ改姓した

検証仮説

改姓前後を結ぶ同一人物文書がない.

13世紀前後の署名,所領,系図原本

P5/P6

壇ノ浦又は元寇後に門司へ定着した

検証仮説

移動主体・居住・恩賞・所領の接続史料なし.経家の1185年3月死亡説は,後年の都筑平太との同一人物説と両立しない.

武蔵―九州と九州―門司を分けて文書照合

P6

石野の主張が1994年の都筑区名に反映された

撤回

[71]所収の選定報告書・経過記事に石野への参照を確認できない.

起草過程・委員会議事資料での典拠確認

現代名称史

明和5年墓碑が門司綴木家の確定初見である

判断不能

著者が明和5年と読んだという観察報告.年紀の性格と石の成立時点は未確定.

写真,四面全文,建立・再建・追刻時期,過去帳との照合

P5

画像から検証できる門司家の最古人物年代は熊蔵の天保2年出生である

確認

除籍謄本画像がその出生年月日を記す.

同時代出生記録ではない点に留意

P5

本稿確認範囲の同時代公刊資料で1913年に門司の綴木姓人物がいる

確認

1913年の会社要録35頁に門司潮湯株式会社取締役綴木六郎.

家族関係,住所の連続.初見は姓の起源を意味しない.

P5

中世人物から熊蔵まで実際に系譜が連続した

判断不能

接続史料がなく,本稿採用資料では立証できない.

世代ごとの相続,居住,寺檀,奉公資料

P6

門司綴木家は江戸期の郷士・地侍である

判断不能

身分を示す同時代史料なし.名簿不掲載も積極的証拠でない.

分限帳,侍帳,村方・庄屋・宗門資料

P5

綴木家が綴木遊園地を所有・経営した

判断不能

1932年11月15日刊冊子の地図に名称.所有・経営・寄付は別命題.

地番対応,土地台帳,登記,新聞・営業資料,寄付・移管記録

P5

「綴木」の字形・姓使用を門司の昭和期初見から説明すること

撤回

1234年・1706年文書由来翻刻の郡名用例と,1913年の同時代門司姓氏用例を区別して確認できる.

各原文書画像による字形確認

P2

綴喜郡と綴木郡は同一地域を指す異表記である

確認

1234年・1706年付文書の刊行翻刻の地理的文脈.

一般的・公的な書記慣行への一般化は不可

P3

佐竹家関係刊行系図に「綴木氏」の氏称記事がある

確認

図5は千三郎.氏称・年紀・母欄を再読.

頁・親見出し,1973年版の当該記事,底本,生前公称・継承

P4

『相生町誌』は葛木姓世帯について赤松高瀬綴木家からの分出家伝を記す

確認

1973年刊として提供された図6に分出家伝と「詳細不明」.世帯主欄「葛木」と分出元「綴木」を第10稿で区別した.

凡例・原調査票・聞取方法,分出人物・年代・続柄

P5

徳島県内の同姓分布が赤松高瀬家との血縁を示す

判断不能

分布は探索補助.公的な地名対応も血縁の証明にはならない.

戸籍,除籍,寺院,土地,移住資料

P6

丹羽は綴木を綴喜と関連する主要な姓氏として明示的に分類する

確認

1994年刊行頁及び凡例の提供画像.

凡例の③=おもな関連姓氏を直接確認.個別典拠・採録年・関係の種類は未確定.

P2

古代ツツキ系名称と門司家の直接系譜説

撤回

P1~P5の資料点を世代ごとに結ぶ資料がない.

P6の接続資料

P6

委員会の理念説明を公募参加者の動機とする解釈

撤回

自由公募と委員会内投票は別の手続.命名理由欄はなく,個々の応募理由は判定不能.

応募原票・個別の同時代記録

現代名称史

「都を筑く」の作成時点を選定後とする解釈

撤回

1993年10月26日付選定報告書と同年12月広報紙に既に存在する.

最初の着想者・起草者は未確定

現代名称史

住民と行政の旧名認識を一律に二分する解釈

撤回

選定報告書,市計画局委託の歴史民俗調査,1984年開設の都筑センター.

個々の住民・職員の知識は一般化しない

現代名称史

旧郡名の歴史的継承と「都を筑く」という理念が選定時に併存した

確認

1993年10月26日付選定報告書の第一・第二理由[71]34頁.

古代語源・応募者の個別動機とは分離

現代名称史

応募316件の主体・居住地・歴史継承動機の同定

判断不能

原表はD区名への応募件数であり,個別理由や名称別居住地内訳を示さない.

応募原票の同定と個別理由の確認

現代名称史

経家と都筑平太が同一人物である可能性

検証仮説

通称・年代・活動圏の整合を条件とする蓋然的仮説.一意性は未証明.

諱・別名・親族・所領・主従を独立照合

P4

綴喜党・綴党は経家の血縁一族・所領共同体・同一軍勢である

撤回

党名類似と近代著者の同定だけでは各関係を確定できない.

構成員,親族,所領,軍役,継承時期

P4/P6

山城・武蔵・九州・門司は未接続なので相互に無関係である

判断不能

未証明の接続を否定の証明へ変換できない.

人物を連続させる文書・系図・奉公・戸籍的資料

P6

重平・政夫の紳士録掲載を一家の名望家性の証拠とする

判断不能

重平の家主記載,両名の掲載税額と採録条件は確認.政治・社会的影響力は別の命題.

人物同定,議事・団体・寄付等の直接記録

P5

綴木米市は市会議員として記録されている

確認

1933年『門司市史』840頁の1929年市制記念感謝状一覧.

選挙・任期・議案・採決及び他資料の人物との同定

P5

米市は師範格であり叙勲も受けた

判断不能

武道名簿の旧転記と官報の号数から資格・栄典を補えない.

武道の氏名欄・凡例,官報該当本文・対象者属性

P5

米市=米一であり,綴木組を率いて労働争議を調停した

判断不能

各命題の直接接続が未了.警察年鑑の名称列記だけでは米市の役職を示さない.

米一の本文,改名・別名記録,団体原簿,争議該当全文

P5/P6

付表4 古代史料の年代と名称機能

作品成立年と現存媒体の年代を区別する.利用刊本の該当箇所・頁は,第9稿に記録された従前の画像照合と訂正を継承する.成立年代・比定に関する解説は[57][59]及び[67][70]を参照する.

付表4A 成立年代・記事対象年代・利用伝本年代

史料

史料成立

記事が設定された年代・対象

利用写本・刊本の年代と確認範囲

『古事記』

712年

開化・仁徳代等の伝承.年次を実年代と同一視しない.

1898年『国史大系』.現存最古の完本系統の真福寺本は1371―1372年書写(字形未対校).

『日本書紀』

720年

仁徳30―31年(紀年上342―343年)の筒城関係記事;継体5年10月(同511年)の遷都.紀年を実年代と直結しない.

1897年『国史大系』.当該巻の底本・各写本の書写年代を本稿では網羅対校していない.

『万葉集』巻20

8世紀後半の編纂.最終成立時期には議論がある.

天平勝宝7年(755)2月の防人歌・左注.

西本願寺本(鎌倉時代の伝本)を1933年に複製した利用版.写本と複製年を分離.

『続日本紀』巻26

797年

天平神護元年(765)8月,和気王事件.

1897年『国史大系』.当該記事を765年原紙の直接確認とはしない.

『続日本後紀』

869年

承和5年(838)2月22日,武蔵国の神社記事.

1897年『国史大系』.国立公文書館には慶長写本の解説もあるが,その該当字形は未対校.

『倭名類聚鈔』巻6

10世紀前半,承平年間頃(931―938年).935年以前とする整理もある.

編纂時点で整理された行政地名.各地名成立年とは異なる.

1869年宝文堂刊,20巻系統の巻6.10巻系統と混同しない.

『延喜式』巻9

927年完成

平安期の神社・行政地名の編纂.個々の名称の初出年ではない.

1929年校訂刊本.後代伝本・校訂を経た本文として扱う.

付表4B 字形・地域・文法機能の対応

字形

史料

国・地域

名称の機能

本文単位

利用版の所在

山代/夜麻志呂

古事記

山代国

国名・地域名

山代之荏名津比賣/夜麻志呂能

[1]78―80,130―131頁;[59]

都都紀/都々紀

古事記

山代国南部

地名を含む宮号・歌謡表現

都都紀能美夜邇/現代整理見出し「都々紀能美夜」

[1]130―131頁;[59]

筒木

古事記

山代国南部

地名による人物限定

筒木韓人

[1]130―131頁

大筒木

古事記

山代関連

人名要素

大筒木垂根王/山代之大筒木眞若王

[1]78―80頁

山背

日本書紀

山背国

国名

山背筒城

[2]288頁

筒城

日本書紀

山背国南部

地名・宮号

筒城岡南/筒城宮/山背筒城

[2]201―202,288頁

都筑

万葉集

武蔵国

郡名

都筑郡上丁…

[35]巻20,40コマ

綴喜

続日本紀

山背国

郡名

綴喜郡松井村

[36]448頁,230コマ

都築

続日本後紀

武蔵国

郡名

武藏國都築郡…

[34]243頁,129コマ

綴喜/豆々木

倭名類聚鈔

山城国

郡名と訓;別に同名郷

綴喜郡〈豆々木〉/郷名列の綴喜

[3]17コマ

都筑

倭名類聚鈔

武蔵国

郡名

都筑郡

[3]25コマ

綴喜

延喜式

山城国

郡名

綴喜郡十四座

[4]258頁,164コマ

都筑

延喜式

武蔵国

郡名

都筑郡一座

[4]314頁,192コマ

付表5 1234年寄進状の翻刻対照と未了範囲

右欄は『鎌倉遺文』刊本版面の再翻刻ではなく,同書を典拠とする公開採録及び公開一覧である.二刊本の完全対校を済ませたと誤解されないよう,確認媒体を明示する.

付表5 同一文書の対応と核心句の限定照合

項目

『大日本古文書』版面

『鎌倉遺文』出典の公開採録等

判定・限界

所収・同定

849号,119―120頁,欄外「九一巻」

7巻145頁,4690号,百巻91に対応([60][61]

同一寄進状一通.番号体系を混同しない.

所在句

在山城國綴木郡大住郷香嶋里拾參坪内

在山城国綴木郡大住郷香嶋里拾参坪内([61]の採録)

核心字形「綴木」は一致.新旧字差は採録段階の処理か未確定.

木の補注

119頁の当該「木」に喜への訂正注は見えない.

刊本版面を未取得.公開採録から校訂注を復元しない.

「両刊本に注がない」とは断定しない.

年紀・署名

120頁に欠字枠と小字補読,圓定(花押)の表示.

天福2年9月22日付と対応付けられる([60]).

年紀の整理形と原文の欠字・補読を区別.

原本・写し/筆跡

提供されるのは学術翻刻の版面.

刊行翻刻を出典とする採録.

両者とも当該原文書画像ではない.原本性・原字形は未確認.

付表6 追加調査の対象と現在の到達点

付表6 確認済み事項と未確認事項

対象

確認できた範囲

本稿で未確認の事項

次に照合する資料・作業

1234年寄進状

『大日本古文書』849号版面と『鎌倉遺文』4690号の対応,核心所在句

『鎌倉遺文』145頁の版面・全校訂注;原文書の原本・写しの別,原字形

百巻91の文書所在を古文書目録で確定し,原画像と二刊本を一字ずつ対校する.

1706年口上書

刊行翻刻画像の山城綴木郡及び小字(喜)

掲載刊本・頁・凡例,全文の差出名義,筆記者又は代書人

『史料が語る城陽近世史』第1集等の資料目次・該当頁を照合し,市辺自治会文書の請求番号へ接続する.

松岡1929年

864頁「山城國綴木郡」を公開版面で再確認

著者原稿,校正刷り,正誤表

当該巻の正誤表・異刷と原稿所在を確認し,用字原因の判定材料を集める.

菊池1966年

本文・系図の反復及び他表記との使い分け

字形選択の主体,依拠『記伝』の該当箇所・利用版

原稿・校正資料及び『古事記伝』関係箇所を照合する.

丹羽1994年

凡例③と164頁③の綴木,語源説明の推量形

関連の具体的意味,採録年・採録地,先行典拠,切抜き外の③の続き

全頁,序跋・文献欄・正誤表,先行姓氏辞典・地名辞典の本文と相互参照を照合する.

古代主要伝本

主要利用刊本の公開版面を再確認;成立・対象・利用年代の区別

各巻の写本系統の網羅的対校,宮跡の厳密比定

利用刊本の底本注を起点に写本ごとの該当字形を対校し,名称史と遺跡比定を別に進める.

横浜市都筑区名選定

1993年の調査・公募・委員会内投票・選定報告書と条例決定を刊行版面で確認.

報告書原紙,応募原票の全数,個々の応募理由及び表現の起草者は未確認.

選定事務の保存文書・応募原票・起草記録.個別の記録がない限り,応募者の動機や最初の起草者を補わない.

中世人物・諸本

書陵部本の江戸初期写と対象画像,1926・1930年刊本の人名

『吾妻鏡』の対象条の原写本対校,他版の経家表記,1195年項目の本文

[33][74][78]を起点に版・頁を固定し,通称・諱・所領・主従・年を対照する.

党名・近代研究・移動

綴喜黨・綴黨の利用版原字と限定文脈,誤った出典接続の撤回

石野原版面,佐藤・白井・斉藤該当原文,党構成・血縁・地域間移動の接続文書

近代研究の典拠を原史料へ戻し,武蔵―九州―門司を区間別に検証する.

付表7 中世人物・党名と近現代の同定の分解

年代は記事対象・作品成立・現存写本・利用刊本を分ける.原字欄は確認した特定伝本の表記であり,すべての伝本へ一般化しない.近現代資料の未確認項目は空欄で補完せず明記した.

付表7A 作品成立・記事対象・現存写本・利用媒体

史料 記事対象年代 作品成立・著述年代 現存写本の年代 利用する確認媒体・箇所
古今著聞集[7][33] 頼朝・景時の活動する12世紀後半.捕縛・狩猟・入海年は不明 1254年,橘成季の説話集 書陵部500・21は江戸初期写(目録) 当該写本画像264―266;1926年刊565―567頁.両者の直接底本関係は未確定.
吾妻鏡[8][9][74] 1185年10月24日条;1190年11月7日条 鎌倉末期の編纂とされる 北条本は16世紀以後の収集・補写を含む複合伝本.対象条の原字未対校 1930年刊第1,216―218頁;第3,54―57頁.対象条の年と刊年を分離.
平家物語[10][76] 一ノ谷,1184年 13世紀の原形成立とされ,以後諸本が展開 1935年利用刊本の底本写本と書写年代は未確定 1935年刊『中編』244頁/125コマ,「坂落」の党名列挙.
源平盛衰記[11][12][75] 小坪1180年;一ノ谷1184年 14世紀前半説が一般的だが定説としない 伝本研究は現存写本を16世紀以後とする.本稿はその該当原字を未対校 寛永年間(1624―1644)刊.巻21は17―18コマ,巻37は11コマの限定箇所.
石野瑛[15] 綴党・経家:中世;別文の元寇:13世紀後半 1941年刊の郷土史叙述 中世写本に当たらない 第6稿のOCR転記,98―99頁相当/57コマ.原版面未再確認.
佐藤・斉藤・白井[13][14][16] 従来主張の対象は平治の乱・経家・一ノ谷.本文未特定 佐藤1959年,斉藤1966年,白井1930年 中世写本に当たらない 書誌確認記録を継承.該当原文は未確認であり,成立年を中世へ遡らせない.

付表7B 中世史料の原字と人物・集団属性

付表7B 原字から直接読める範囲と未確定属性

史料・媒体 原字/人物名 地名冠称・地域 党名・親族 主従関係 活動地域・年代/限界
古今著聞集・書陵部本[33] つつきの平太経家(くずし字を通行字体に翻字) 冠称つつきの;武蔵国住人.冠称の由来地は未確定 党名・親族をこの説話から特定できない 平家郎等,頼朝の捕縛・景時預かり,赦免後の厩別当という叙述 頼朝方,富士川あいさわの狩という随行譚.捕縛・狩猟・入海の年は不明.
古今著聞集・1926年刊[7] 綴喜平太經家 冠称綴喜;本文は武蔵國の住人.山城出身とは記さない 経家の血縁集団・所領共同体の記述なし 上と同じ説話の漢字刊本.独立した別人記録に数えない 写本との表記差を確認.漢字化の編集経路・初出年は未確定.
吾妻鏡・1930年刊[8][9] 都筑平太;諱なし 冠称都筑.この人名だけでは郡内居所・出生地を確定できない 対象列挙に党名・親族の接続なし 1185年は頼朝の随兵列;1190年は行列の廿一番 1185年・1190年の頼朝周辺の記載.経家との年代・活動圏は整合し得るが,一意同定は不可.
平家物語・1935年刊[10] 綴喜黨;個人名・諱なし 党名中の綴喜を山城居住の記録に転用しない 綴喜党.血縁・共有所領・経家との所属関係は未記載 党別の指揮者を当該列挙のみから確定できない 一ノ谷,1184年の場面.軍記による参戦叙述と史実の確証を分ける.
源平盛衰記・巻21寛永刊[11] 綴黨/太郎五郎;別に綴太郎 武藏國ノ住人;冠称綴.国以上の居所は未特定 綴党の大将として太郎・五郎の兄弟二人.諱・経家との血縁は未記載 綴太郎は畠山の郎等を名乗る 相模・小坪,1180年の場面;和田小次郎との戦闘.兄弟二人の関係を党全体へ広げない.
源平盛衰記・巻37寛永刊[12] 小澤横山兒玉黨猪俣野與山口ノ者共 この列挙には綴喜・都筑なし 党・者共の列挙.経家との接続なし 本表は限定した列挙の字形比較 一ノ谷,1184年の場面.この版の11コマの不見を全伝本に拡張しない.

付表7C 近現代著者の説明と本稿の判断

付表7C 原文・転記・近代の同定・現在の推測を分離する

資料・著述年 原字・人名の確認状態 冠称・党・地理の接続 主従・年代の接続 本稿の判断と次の照合
石野瑛,1941年[15] 継承OCRは「綴黨」「都筑平太經家」.小貳資能・資經等の原字・字順は未確定 旧都筑郡内の綴党と,経家の集団帰属は石野の説明.中世の所領・血縁文書ではない 元寇文は「尙又」以下の小弐父子・祖武藤氏という別主語.経家の履歴へ接合しない 経家又は後裔への元寇接続を撤回.原版面と八代博士説の原典を要確認.
佐藤春夫,1959年[13] 平治の乱に関する章の書誌・目次情報.綴喜一族追放の原文未特定 経家の出自,山城から武蔵への移動の資料として不使用 1159年の乱を経家の追放時点にする根拠未確認 佐藤への帰属を撤回.関連叙述が絶対にないとの断定はしない.
斉藤直芳,1966年[14] 経家の表記・該当原文は未確認 冠称・党・居所を同書から補わない 馬術・主従・年代を未見本文から復元しない 目次候補151―154頁を本文照合し,古今著聞集等との依存関係を確認する.
白井喬二,1930年[16] 「綴喜の兵」の該当原文未特定.近代歴史小説 中世軍記の原典又は党名の原字証拠として不使用 一ノ谷の参戦は1935年刊平家の綴喜黨と別に出典表示 旧帰属を撤回.作品全体の不存在の証明にはしない.
昭島市史,1978年[77] 公開本文は綴党・綴喜党・経家説話を整理 都筑郡比定,党名対応及び平氏との関係は市史の説明 引用古典の平家郎等は奉公関係.血縁の直接証拠ではない 説明の存在は確認.同じ古典に依存する研究を独立した中世証拠として加算しない.
緑区史・横浜市公開目次[78] 目次に綴太郎・綴党・綴喜党・都筑党・都筑平太等 目次の表記は編集上の整理形であり,中世原字ではない 1180・1184・1185・1190・1195年の検索先を示す 1195年等は原文未照合.経家の活動終年・後裔関係へ加えない.

表中の「未特定」「未確認」は作業状態である.同一人物説,党名の対応説及び地域間移動説は相互に代用せず,新たな接続資料又は矛盾資料が得られた時点で再判定する.

付表8 佐竹・徳島資料の照合結果と遡及先

刊行物の記載,編纂経緯,行政地名及び未確認原資料を分ける.「未確認」は,資料の不存在又は伝承の虚偽を意味しない.

付表8 確認事項と原資料への遡及

対象

確認事項

確認媒体・評価範囲

次に必要な照合

佐竹・人名と氏称

千三郎/綴木氏を称

図5の千三郎と氏称を再読.P4の刊行氏称記事.

掲載全頁,親見出し及び底本の原字

佐竹・年紀

1802年出生,1806年袴着,1811年没・十歳

図5の刊行記事.十歳は数え年と整合.

同時代の出生・儀礼・死亡記録

佐竹・母と親族

母 戸村氏/義敬五女

図5の母欄.父名・兄弟欄は切抜き外.

全系線,父名,兄弟・同母異母関係

佐竹・掲載頁

書誌の325pは総頁数

[52]書誌.該当頁は未確定.

現物の頁番号・前後頁・奥付

佐竹・先行刊本

1993年版は1973年版付録を増補

[79]公開調査回答.先行版付録133―167頁.

両本文を対校.千三郎条の有無と増補箇所

佐竹・底本と継承

個別底本,生前公称,世襲分家は未確認

後代の氏称記事を,同時代の家督資料に代用しない.

底本家譜の所在・書写年,氏称・養子・相続記録

徳島・家伝

葛木姓世帯の先祖は赤松高瀬綴木家より分出,詳細不明 [53]図6.1973年刊行時までの採録.464頁は提供情報.改姓の時期・事情は未特定.

全頁・凡例・部落史編担当表示

徳島・地理

現美波町赤松字高瀬/1973年は日和佐町

[54][81]公的所在地・沿革・旧新住所対応.

旧小字・地番,家の屋敷地と寺院の特定

徳島・採録地

旧相生町域は現在の那賀町域

[82]2005年3月1日合併後の住所変更.

町誌原調査票・聞取者・話者・調査時点

徳島・所在探索

1976年刊の史料所在目録が調査の手掛かり

[84]調査報告本文.赤松高瀬の原資料自体は未確認.

目録該当項目と現所在.散逸・移管の追跡

徳島・世代接続

原調査票・関係家簿冊の現所在は未確定

家伝と同姓分布だけでは世代線を引けない.

戸籍・除籍,過去帳,土地台帳,移住・相続資料

注 照会・現地調査は未実施.地域間の単一系譜は未証明であり,確認後に資料番号・頁を追記する.

付表9 門司関係資料の再照合記録

本表は第9稿(2026年9月5日)の外部版面照合記録を継承し,内包される除籍の必要部分と地図のみを第10稿でも直接再読した.原簿照会,全巻精読,現地再調査及び寺院照会が済んだことを意味しない.

付表9A 家族・墓碑・施設に関する確認範囲

資料・箇所

確認記録

歴史判断の範囲

未了の直接照合

除籍謄本[41]図7

熊蔵の天保2年12月29日生・明治42年7月9日没,戸主との続柄「祖父」.

熊蔵についての戸籍記載を確認.後代の遡及記載であり,同時代出生記録ではない.

全葉,編製・改製・除籍日,出生地,前後戸籍.

除籍謄本[41]図7・表9

増之助は明治26年4月8日生,父亡安吉・同人長男.高次欄は前稿翻刻を継承.

熊蔵―増之助の祖孫,安吉―増之助の父子を確認.熊蔵―安吉の父子線を補わない.

高次原欄,熊蔵と安吉の直接の続柄,前後世代及び公刊人物への接続.

除籍謄本[41]図8

2019年4月1日交付・北九州市門司区長認証の表示.

写しの認証・交付時点.戸籍編製年及び出生事項の原記載日とは別.

全葉の認証・丁付との連続性.

庄司町墓地の墓碑[42]

著者の観察報告を継承.最古読取年紀は明和5年,観察範囲は文久元年まで.

著者観察資料.年紀・法名の読取りと同一人物同定の第三者検証は未了.

写真,四面全文,建立・再建・移転・追刻時期,実測・調査日.

寺院過去帳

入力に原画像・全文・所在を特定する情報なし.

未確認.墓碑の法名だけでは熊蔵その他へ同定しない.

寺院と簿冊の特定,法名・俗名・没日・年齢・施主・続柄.

分限帳・侍帳・宗門人別帳等

前稿の所在案内を継承.綴木姓の該当本文は未照合.

近世身分は判断不能.名簿不見から郷士・地侍を肯定しない.

作成主体・対象身分・地域・年次・欠損・異表記を確認し,村方・庄屋記録と対照.

市勢要覧所収地図[18]76・81コマ

81コマ「綴木遊園地」.76コマ奥付は1932年11月15日発行.

名称掲載とおおよその位置を確認.名称成立年・命名日・開園年は未確定.

他年次地図・新聞で名称を遡及.敷地地番・境界を地籍図で照合.

遊園地の土地・営業・寄付関係

土地台帳・登記・新聞・広告・営業資料・寄付文書は未提示.

所有,設置,経営,寄付・開放及び地域貢献は各別に判断不能.

地番別権利移動,営業主体と期間,寄付先・対象地・時点を直接記録で確認.

付表9B 同姓人物・公的活動に関する確認範囲

資料・版面

確認事項・資料状態

採用できる限定命題

未了事項・接続しない関係

会社要録1913年[43]35頁/761コマ

門司潮湯株式会社の取締役綴木六郎.会社設立は大正元年9月.原画像再確認.

調査した同時代刊行物で氏名付きの最古の門司綴木姓人物は1913年の六郎.

設立時の役員就任,熊蔵・安吉・重平等との親族関係.初見は姓の起源ではない.

教会便覧1915年[44]159頁/84コマ

荒瀬鶴喜の住所欄「門司市楠町六丁目綴木内」.原画像再確認.

門司の住所表記中の綴木姓.教役者本人は荒瀬.

綴木側の個人名・宗旨,六郎その他との続柄.

商工録1931年[45]167頁/91コマ

綴木マツ子,日出町一丁目.前稿166頁を訂正.原画像再確認.

「和洋料理カフェー・貸席待合」欄への採録.

個別業態,屋号・規模・土地所有及び除籍系統との接続.

紳士録1937年[19]233頁/896コマ

重平=家主.重平・政夫の掲載町丁目一致.所得税72円・53円.原画像再確認.

掲載職業・住所・税額と巻頭凡例の採録基準を確認.表12参照.

税額の各人の対象年度・原課税台帳,土地規模,名望家性,親族・同居関係.

門司市史1933年[20]839―840頁/453―454コマ

1929年4月1日市制記念の感謝状一覧,前項以外の市会議員に米市.原画像再確認.

米市の市会議員記載と市の記念表彰.公職は限定的に確認.

選挙・就退任・在任全期間,議案・発言・採決,他資料の米市との同定.

市会原簿・議事録等

第9稿の入力に該当原簿・本文なし.

未確認.市史の表彰一覧から個別の政治的役割を補わない.

議員履歴,選挙結果,委員会・議案・会議録と住所を照合.

武道関係1930年[21][22][85]

前稿の「綴木米市・講四段」を継承.第9稿は書誌のみ再確認.

附録と別扱いの書誌を独立二証拠に数えない.

氏名欄と略号凡例,種目・段位制度,所属道場,師範資格,市会議員との同定.

官報1922年9月28日[23]第3049号・号外

公開画像を調査.米市の氏名欄・頁及び栄典区分は未特定.

号・号外辞令の存在と個人への発令を分離する.

該当本文,対象者属性,発令日,勲等・章及び付記.叙勲あり/なしの双方を断定しない.

警察年鑑1930年[26]352頁/190コマ

1928年末の思想関係欄に「大日本國柱軍門司本部,綴木組」.原画像再確認.

警眼社の編纂刊行物における二名称の列記.

二名称の組織関係,綴木組の実態,米市の氏名・役職及び活動との接続.

全逓労働運動前史1965年[25]上巻

市会議員・党首という前稿確認記録を継承.該当頁・全文は第9稿未再照合.

後代の編纂労働運動史として扱う.市史との典拠の独立性は未確認.

事件年,争議の当事者,依頼・仲介の主体,交渉・結果,依拠新聞・原記録.

日本之精華1914年[24]

書誌のみ確認.「綴木米一・尺八」は旧稿の確認候補として保持.

米一を米市へ改めない.同一人物説は未確認.

該当頁・字形,住所・職業・年齢・活動年,改名・別名の明示的記録.

注 各公刊資料の同姓人物,住所中の姓及び施設名は,除籍人物との接続が未了である.複数資料を同じ人物に束ねる前に,氏名以外の属性と資料相互の依拠関係を照合する.「門司家」という総称を用いても,ここに掲げた全員の同族性を前提としない.

付記 最終統合における確認範囲

本文は第9稿のみを入力とし,第1―8稿は誤記,撤回済み主張及び有用資料の保持を比較監査した.原稿・作業系図の未検証の系線,未照合の過剰な人物評価及び研究対象外の親族情報は再導入していない.全六点の到達点を題名・要旨・章小括・考察・結論に対応させた.

第10稿の直接画像確認は内包9画像の範囲である.1706年翻刻,菊池の本文・系図,丹羽の凡例・164頁,佐竹系図の氏称,町誌の分出家伝,除籍部分及び地図を再読した.原文書と刊本画像は区別し,画像が欠く原字・頁・続柄を補っていない.町誌画像は必要な姓・備考欄だけを再掲し,元の見開き画像は本ファイルに埋め込んでいない.

公的書誌・公開本文の再確認は,『日本書紀』利用版の編者・校訂者,『難姓・難地名事典』,『新編佐竹七家系図』,『相生町誌』の書誌,赤松高瀬の公的所在地,佐竹系図の編纂経緯,東大寺文書公開一覧・編纂ノート及び都筑区公式沿革について行った.この確認を各刊本の全頁実見又は原史料の確認へ拡張しない.

引用箇所の未了事項として,1706年口上書の掲載刊本・頁・注記凡例,1234年文書の原画像と二翻刻の全文対校,佐竹系図の該当頁・親見出し・底本,町誌の頁番号・原調査記録,補論Aの各文献の該当頁・図版及び一部近代人物資料の本文が残る.『大日本古文書』該当公開頁と横浜市の1995年記録PDFは第10稿では再取得できず,既存の版面確認記録を継承した.未取得を資料の不存在又は先行する確認の否定とは扱わない.

参考文献・利用史料目録は確認媒体と未了範囲を併記し,刊本頁と総頁数,PIDとコマ,記事対象年と刊年を分離した.図は1―9,本文表は1―14,付表は1―9に統一した.歴史的引用は原媒体の旧字体・句読点を保ち,説明文は新字体と「,.」を基本とする.脚注・変更履歴・コメントに依存する未確定指示は残していない.

本稿の「投稿前最終稿」は,本計画の全章統合と文書体裁監査を終えた版を意味する.上記の未確認史料が確認済みになったこと,投稿先固有の執筆要領・字数制限との適合,又は掲載画像の転載条件の確認完了を意味しない.