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氏名:綴木 馴 (つづるぎ じゅん)

(東京大学・学士・修士:綴木 大の実兄です.)
(2006年2月7日を以て戸籍上,綴木 潤から綴木 馴に改名しました)


●綴木家の由来●
綴木家は「日本姓氏語源辞典:宮本洋一」によると福岡県・北九州市・門司区に30名程度と最も多く,元々は綴喜家であり,綴木は綴喜の異形である.綴喜とは,京都府・綴喜郡・発祥.奈良時代から記録のある地名.地名は「綴喜」だけでなく「綴熹」,「綴木」,「筒城」,「筒木」,「管木」とも表記した.日本姓氏語源辞典では綴喜が綴木と名乗ったのは,「北九州市・門司区・長谷での伝承によると鎌倉時代推定される」とある.平安時代以降の綴喜家は,東京都・八王子市・元横山町付近を根拠地とした武蔵七党に属していた.ここで示す現存する資料より,綴喜家は源義経と共に平家討伐の為,関東で挙兵し,壇ノ浦の戦いがあった対岸である九州の門司まで行ったと考えられる.

まず,綴木という姓に対して複数の読み方がある.「つづるぎ」,「つづるき」,「つづりき」,「つづりぎ」,「つづき」等である.綴木家は元々「綴喜(つづき)」と名乗っていた.また,綴喜という姓の他に「綴,筒木,筒城」という姓も存在していた.「綴木 大」氏が東京大学付属図書館で調べたところによると「つづ」と言う音を持つ姓は「天皇家につづく」と言う意味から天皇家により直々に与えられた姓であり,まだ武士の存在しない時代から天皇家直属の護衛集団であった.「継体天皇 筒城宮跡」は現在の綴喜郡に含まれる田辺市に位置する同志社大学京田辺キャンパス内にあり,「継体天皇筒城宮跡伝承地」という碑が同志社大学のキャンパス内にある.綴木家のルーツとなる綴喜氏はこの辺りの領土を天皇家により与えられたと考えられる.第26代継体(けいたい)天皇(450年頃-推定531年3月10日),(在位:推定507年3月3日-推定531年3月10日)により,都は一時期,筒城宮に遷都している.

綴木家は平安時代において,武蔵七党と言われる板東武者,即ち関東の武士集団になっている.昭島市史,第五編:律令国家時代,第四章:貴族政治と武士の勃興,第三節:武蔵七党と多摩郡によると綴喜家は武蔵七党の一つである綴喜党(綴党とも言う)と呼ばれていた.平家一門であったにも関わらず,平家により現在の綴喜郡一帯から関東へ追いやられたものと考えられる.平家物語:第九巻:逆落の冒頭では一ノ谷の様子が合戦が次の様に描かれている.「これを手始めとして,三浦,鎌倉,秩父,足利,さらに猪俣,児玉,野井與,横山,西,綴喜,及び私市の武蔵七党の兵どもが動き,源平互いに入り乱れ,喚き叫ぶ声は山を響かし,馳せ違う馬の音は雷のごとく,射違う矢は雨のごとき有様である」.即ち,綴喜家が武蔵七党の一党で,源義経と共に兵を率いて戦った様子が記載されている.これは綴喜家が当時既に板東武者であり,源氏の軍門として源義経と共に西に進軍したと平家物語から判断できる.

綴木家の分布から見られるように,京都から西に向かうにつれて綴木家が存在してる.源平合戦の最後となった壇ノ浦の戦いでの勝利により,綴喜家は現在の門司港付近に領土を与えられたと考えられる.後に鎌倉時代に入り綴喜から綴木に改姓したと考えるのが自然である.

角川日本地名辞典「福岡県」によると,かつての門司市緑町は現在の長谷1丁目,長谷2丁目であり,昭和12〜46年の通称地名である.大字門司のうちであり,門司港地区の東部に位置する.町名は,砂山の急斜面で,四方を山に囲まれた緑川の渓谷を切り開いた土地であることにより名付けられた.大正6年桜の苗木1,500本を植え,私設綴木公園を開設.同年に仲見世を開き本格的公園として整備して以降,民家も漸増した.昭和44年酒場万年亀が緑と水と野鳥に満ちたこの地に着目し,自然公園設立を念願し,自動車道路を施設.料亭万年亀を開店.その後結婚式場,ゴルフセンターなども設置された.日蓮宗妙音寺,白竜大明神社がある.昭和46年長谷1丁目〜2丁目のうちとなる.

上記の通り,結局桜の木1500本は切り倒され,打ちっ放しのゴルフセンターがつくられたが,今は関門霊園になっている.

明治維新後,綴木家は綴木公園を築き,門司市民に桜の名所として開放するなどの栄華を誇ったが,今は,綴木公園の存在すら知られておらず,長い歴史を持った綴木家も今や栄光の影を失いつつある.現在は数世帯の綴木姓を名乗る綴木家一門が門司港付近に住んでいる.